大根器の人
何が大根器の人であるか?大根器の人と根基の良し悪しとはやはり区別があるのだ。こ の大根器の人はなかなか探し当てられず,皆相当長い歴史時期が経過して始めて,一人が 生まれる。勿論大根器の人は先ずかなり大きな徳を具備していなければならない,この白 色物質場は相当大きくなければならない,この点は肯定的なことだ。同時に彼は又苦の中 の苦に耐えなければならず,又大忍の心が無くてはならず,又捨てられなければならず, 又徳を守れなければならず,又悟性が良くなければならない等等。
苦の中の苦とは何か?佛教の中では人になることが苦しいと認めており,あなたは人に なりさえすれば,苦しみを受けなければならない。それはあらゆる空間の生命体は我々常 人のこの身体が無いので,病気に罹らず,生老病死の問題が存在せず,それでこの苦痛も 存在しないと認めている。別の空間の人は浮くことができ,軽重が無く,非常に美妙であ る。常人はこの身体があるからこそ,一つの問題が出現した:寒くなったらいけない,暑 くなったらいけない,喉が渇いたらいけない,腹が空いたらいけない,疲れたらいけない ,又生老病死がある,どうせあなたは気楽な事が無い訳だ。
私が読んだある新聞に載せたことだが唐山で地震が発生した時,多くの人が地震の中で 死んだが,一部の人は救われた。この部分の人に対して一回特別な社会調査を行った:彼 らが死亡状態の下にどんな感覚があったか?と聞いたら意外にこれらの人は皆一つの特殊 な状況を述べた,そして一致したことであり,つまり人は死亡したその瞬間に怖がる感覚 が無いばかりか,丁度反対で却って突然一種の解脱感があり,一種の潜在的な興奮感があ ると感じた;ある人は自分は急に身体の束縛が無くなって,軽くて非常に美妙的に浮いて 来た,まだ自分の身体が見えた;ある人は又別の空間の生命体が見えた;ある人は又どこ かの処に行って来た。全ての人もその瞬間に一種の解脱された潜在的な一種の興奮の感覚, 苦痛が無い感覚を感じたと言った。つまり我々は人の肉身があることは苦しいことだ,処 が皆がこの様に母胎から来たもので,苦しみを知らない筈なのだ。
私は人が苦の中の苦に耐えなければならないと言う。私はあの日言ったが,人類のこの 時空は別の更に大きな時空空間の概念と違い,我々こっちの一つの時辰は二時間であり, 彼のその空間の一年である。この人はこんなに苦しい環境で煉功して,大したものだ;こ の人は道を求める心を持ち,修煉したい,この人は確かに大したもんだ。こんなに苦しく ても彼はまだ彼の本性を滅ぼさず,彼はまだ修煉して帰りたい。何故無条件に修煉の人を 助けることができるか?その訳である。この人は常人の空間で一晩打坐したら,人が見る と,この人は凄いものだ,彼はここで既に六年座ったのだ。我々の一つの時辰はあそこの 一年であるからだ。我々人類は一つの極めて特殊な空間である。
どの様に苦の中の苦に耐えるのか?例を挙げて言おう,この人はある日出勤に出た。勤 め先は不景気で,仕事の割に人が多すぎるという状態はいけない,勤め先は改革を行い, 請け負い責任制を採って,余剰人員を淘汰する。彼もその中の一人であり,飯の食い上げ になった。これはどんな気持ちだろう?給料は貰えなくなり,どうして生活するか?別の 仕事もできない,しょんぼりして家に帰った。家に着いた途端,うちの老人が病気に罹っ た,病気がかなり酷いから,焦ってのぼせて,急いで病院に送ろう,ようやく金を借りて 来て入院させた。家に帰って老人の為に物を用意する,家に着くと,学校の先生がやって 来て,お宅の子供はよその子を傷つけたから,速く見に行ってくださいと言った。この事 を処理し終えて家に帰って,そこに座ると,電話が掛かって来て:あなたの配偶者に愛人 があったと言った。勿論皆さんはこの様な事に遭う事が無い。一般の人はこの様な苦しみ に耐えられない,考えて見ると:まだいきがいがあるか,縄を探して吊るそう,もう生き たくない!死んだら何もかも無くなるぞ!人としては苦の中の苦に耐えなければならない と私は言った訳だ,勿論必ずしもこの形式ではない。それでは人と人との間の心探り暗闘, 心性上の摩擦,個人利益の争奪の中ではこの事に劣らない。どれくらいかの人はただ一口 の息の為に生きており,耐えられなくなると縊死した。だから我々はこの様な一種の複雑 な環境の中で修煉し,苦の中の苦に耐えられなくてはならず,同時に大忍の心が無くては ならない。
大忍の心とは何であるか?一人の煉功人として先ずできるべき事は殴られても殴り返さ ず,罵られても口答えせず,忍しなければならないことである。さもなければ,あなたは 煉功人だと言えるものか?ある人は:この忍はなかなかできない,私の性格が悪いからと 言った。性格が悪ければ直して,煉功人として忍しなければならない。ある人は子供を仕 付けても怒り,まるで上を下への大騒ぎだ,あなたは子供を仕付けるのにそうする必要は 無く,あなた自身は本当に怒ったらいけない,真に子供が良くなるように教育できる。小 さな事でも越せずに,怒ったりして,功を長じさせたいなどできるものか。ある人は:街 を歩いているところ,誰かが私を蹴ったら,私を知っている人もいないなら,これでは私 が忍できると言った。これではまだ足りないと私は言う,将来あなたの一番恥ずかしい思 いをする人の前で,あなたにびんたを二つ食わして,あなたに恥をさらしたかも知れない ,あなたはどの様にこの問題に対処するか,あなたは忍できるかどうかを見る。あなたは 忍はできるが,心の中では放下できない,それでも駄目である。皆さんの知っているよう に,羅漢のその層次に達したら,何事に遭ったとしても心にとめない,常人の中の一切の 事情は根っから心にとめない,何時もにこにこして,どんなに大きな損をしたでもにこに こして気にかけない。真にできるなら,あなたはもう羅漢の初級果位に達したのだ。
ある人は言ったが,この忍はこの程度まですると,常人でも我々はあまりにも気が弱い, あまりにも苛めやすいと言うだろう。私が言う,それは気が弱いことではない。皆さん考 えて見て,常人の中でも年配の人とか,文化レベルの高い人はまだ涵養を重んじて,他人 と論争しない。況して我々煉功人において言うまでもないではないか?それは何故気が弱 いと言えるのか?私に言わせればそれは大忍の心の体現であり,それは意志が強い体現で あり,煉功人こそこの様な大忍の心がありえる。この様な一句の話があり:匹夫は辱めら れると,剣を抜いて相闘う。常人なら言うまでもない,君が俺を罵ると,俺が君を罵る, 君が俺を殴ると,俺が君を殴る。それは取りも直さず常人であり,彼は煉功人だと言える ものか?一人の修煉の人として,あなたは強い意志が無ければ,あなたは自分を控えるこ とができなければ,あなたはこの一点ができないのだ。
皆さん知っているように古代に韓信と言う人がいた,この韓信は有能で,劉邦の大将軍 で,国家の棟梁であった。何故そんなに大きな事をやれたのだろうか?韓信は小さい時か ら一般の人ではなかった。こういう典故があり,韓信は股下をくぐるような恥辱を受けた と言うことだ。韓信は少年時代から武術を煉り,武術を煉る人は何時も宝剣を掛けていた 。ある日街を歩いていると,一人のごろつきが腰に手を当てて彼の行く先を塞いでいた: お前は剣を掛けて何に使うのか?お前は人を敢えて殺すか?お前は人を敢えて殺すなら俺 の首を斬ってくれ。と言いながら首を伸ばした。韓信は:僕はどうして君の首を斬るのか ?と思っていた。その時でも人の首を斬ったら官に報告して命を以て償わなければならず ,勝手に人を殺せるものか?彼は韓信が敢えて殺せないと見て取ると,お前は俺を敢えて 殺せなければ,俺の股下をくぐって行けと言った。韓信は本当に彼の股下をくぐって行っ た。これは韓信には大した大忍の心があると証明したのだ,彼は一般の常人と違うから, 彼はこんなに大きな事をやれた訳だ。人は意地にも頑張るべきだ,それは常人の話である 。意地の為に生きている,皆さん考えて見て,そんな生き方は疲れないのか?苦しくない のか?価値があるのか?韓信は畢竟常人であるが,我々は一人の修煉の人であり,我々は 彼よりずっと優れている。我々の目標は常人の層次を超え,もっと高い層次へ進んで行く 事に達するのである。この事には我々は遭えないが,修煉人は常人の中で侮辱され、屈辱 された時は,これに及ばないとは限らない。人と人との間の心性の中の摩擦は,私に言わ せればこのものに劣らず,勝るところがあるとも及ばないところは無い,それも相当難し いことだ。
同時に,修煉人は更に捨てることができなければならない,常人の中の各種の執着、各 種の欲望を捨てるべきだ。一遍にはできないのだが,我々は段々とできるようになる。今 日あなたが一遍でできるなら,あなたが今日佛になったのだ。修煉はゆっくりやらなけれ ばならないが,あなたは緩くしてならない。あなたは言う:先生は,修煉はゆっくりしな ければならないと言ったから,我々はゆっくりやりましょう。それはいけないのだ!あな たは自分に対して厳しく要求しなければならない,佛法修煉にはあなたが勇猛精進にしな ければならない。
また徳を守ることができなければならない,心性を守り,勝手なことをしてはいけない 。あなたは勝手にやりたい事をやってはいけない,あなたはあなたの心性を守ることがで きなければならない。常人の中で皆さんは常にこの様な話を聞いただろう:徳を積んで良 い事をすると。煉功人は徳を積むと言わず,我々は徳を守ることを重んじる。何故徳を守 ることを重んじるのか?我々はこの様な状況を見た:徳を積むとは常人の言うことで,彼 は徳を積んで,善を行えば,来世は益を得る。我々のここにはこの問題は無く,あなたは 修成したら道を得たのだから,来世は無いのだ。我々はここで徳を守ることを言うのには ,もう一つの意味がある,つまり,我々の身体に持っている二種の物質は一生一世で積ん だものではなく,それは一つの久しく遠い年代を経て遺留して来たものである。あなたは 自転車に乗って街を走り回っても,必ずしもやれる良い事に会うとは限らない。あなたは 毎日こうしても,必ずしも会えるとは限らないのだ。
又一層の意味もある, あなたに徳を積ませるが,あなたはその事は良い事だと見るが, あなたはやると,悪い事になるかも知れない;あなたはその事は悪い事だと見た時,あな たは構うなら,良い事になるかも知れない。何故だろうか?あなたはその中の因縁関係を 見分けることができないからだ。法律は常人の中の事を管理する,これは問題が無い。一 人の煉功人としては超常なもので,あなたは一人の超常な人として,超常な理であなたに 要求しなければならない,常人の中の理で評定していけない。あなたは一件の事情の因縁 関係を知らないので,その事をやり間違いやすい。だから我々は無為を重んじる,あなた は何かやりたいと思うとすぐやってはいけない。ある人は:私は悪人を懲らしめたいと言 った。私に言わせればそれならあなたは警察になる方が良い。しかし我々はあなたに殺人 や放火の事に遭っても構わせないことではない。私は皆さんに教えるが,人と人との間に 矛盾が発生したり,彼は人を蹴ったり,彼は人を殴ったりしたが,以前その人は彼に借り があったので,その二人が勘定を締めているかも知れない。あなたが干渉すれば,彼らの 間に締めることができなくなり,次回に再び新たに起こるだろう。これはつまりあなたが 因縁関係を見分けられなければ,悪い事をやりやすい,従って徳を失うことだ。
常人は常人の事に干渉すれば構わない,彼は常人の理で評定するのだ。あなたは超常の 理で評定しなければならない,あなたは殺人や放火を見ても干渉しないなら心性の問題で あり,さもなければどの様にして良い人を表現することができるか?殺人や放火でもあな たは干渉しなければ,あなたは何をするのか?しかし一点があり,これらの事は我々修煉 の人と関係が無い。あなたの為に手配するとは限らず,あなたに遭わせるとは限らない。 我々は徳を守ることを重んじるのはあなたが悪い事をやることを避けるのであり,あなた はちょっとその事をやると,悪い事をやるかも知れない,それであなたは徳を失う。あな たは徳を失うと,あなたの層次を上へ如何に向上させるか?如何にあなたの最終の目標に 達するのか?この中にはこの様な問題があるのだ。この他に,悟性が良くなければならな い,根基が良ければ悟性も良いかも知れない,環境の影響も作用を働く。
我々が既に言ったように,我々一人一人も内へ向かって修めるなら,一人一人も自分の 心性上から探し,どこが良くやっていないか自分で原因を探し,次回に直す,事をするに 当たりに先ず他人の為に考える。それでは人類社会も良くなり,道徳も回復し,精神文明 も良くなり,治安状況も良くなり,警察が要らなくなるかも知れない。管理者は要らず, 誰でも自分自身を管理し,自分自身の心の中へ探し,これは何と素晴らしいだろう。皆さ んが知っているように今は法律が段々と健全され,次第に完備されているのに,ある人は 何故まだ悪事をやるのか?法があるのに依らないのか?あなたは彼の心を拘束できないか らだ,見えない時,彼はやはり悪事をやるのだ。もし誰もが内心へ向かって修めれば,そ れは全く違うことになる。あなたは不平を鳴らすことも必要が無い。
法についてこの一層までしか説けないのであり,更に高いものはあなた自分で修めて初 めて得ることができる。ある人は問題を出すが出せば出すほど具体化になり,生活の中の 問題は全部私に解答させれば,あなた自身は何で修煉するのか!あなたは自分で修めなけ ればならないし,自分で悟らなければならない,私は全部言い出したら,あなたが修める ものは無くなるのだ。幸いに大法は既に伝え出したから,あなたは大法に基づいてやるこ とができるのだ。
私は私が法を伝える時間が基本的に間もなく終わると思うから,真のものを皆さんに残 したく,皆さんの今後の修煉の中に,皆さんを指導する法があるためである。法を伝える 全過程に,私も皆さんに責任を負い,同時に社会にも責任を負うことに基づいているのだ ,実際は我々もこの原則に基づいてやったのであり,良くできたかどうかについては私も 言わないが,自ずから公論がある。私の願望は大法を伝え出して,我々の更に多くの人に 受益させることができ,真に修煉したい人には法に依り上へ修煉させることができる。同 時に法を伝える過程に於いて,我々も人を為す道理を述べた,あなた達は学習班から下り てから,大法により修煉できない人でも,少なくとも一人の良い人になるように希望して おり,これは我々の社会に対して有益なのだ。実はあなたは既に一人の良い人になるはず だ,下りてから,あなたも一人の良い人になれるのだ。
法を伝える過程の中で順調ではない所もあり,方々面々からの邪魔もかなり大きかった 。主催の部門と各界の指導者の与えた力を入れた支持と工作人員の努力のため,我々の班 は比較的に円満に行うことができた。
班を行った間,私が講じたのは全部皆さんが高層次上へ修煉するのを指導するもので, 過去の講法の中にこれらのものを講じた人はいなかった。我々の講じたものは非常に明ら かで,現代科学と現代人体科学を結び付けて講じたもので,そして講じた層次はとても高 い。主として皆さんの為であり,あなたに将来真に法を得させ,修煉し上がらせることが できる,これは私の出発点である。我々の伝法伝功の過程に多くの人は法が良いが,やる のがとても難しいと思った。実は難しいか難しくないかは,誰に言うかによると私は思う ,一人の普通の常人では,修煉したくない,彼は修煉は大変難しく,不可思議で,修成で きないと思う。彼は一人の常人であり,彼は修煉したくない,彼はとても難しいと見るは ずだ。老子曰く:“上士は道を聞くと,勤しんで之を行い;中士は道を聞くと,存るが若 き亡きが若く;下士は道を聞くと,之を大いに笑い,笑わないと道に足らない。”真に修 煉する人なら,私に言わせればかなり容易な事で,何か高くてよじ登れないものではない 。実は在席の多くの古い学員と来ていない古い学員は既に相当高い層次上に修煉していた のだ。私はあなたにこれらの事を言っていなかったのはあなたに執着心,心ひそかに喜ぶ 等の要素を生じて,あなたの功力の向上に影響することに心配した訳だ。 一人の真に修煉する決心がある人として,彼は我慢でき,各種の利益の前でこの執着心 を放下でき,それをかなり淡泊に見られる,これができさえすれば難しい事は無い。いわ ゆる難しいと言う人には,彼はこれらのものを放下できない訳だ。功法修煉自身は難しく ないし,層次を高める自身も何も難しいことはない,人の心を放下できないから,彼は難 しいと言う訳だ。現実な利益の中でそれを放下するのはとても難しい,この利益がここに 置いてあるのだから,この心はどうして放下できるのだろうか?彼が難しいと思うが,実 際は難しい事もここにある訳だ。我々は人と人との間に矛盾が発生した時,一時の腹立ち を控えられず,甚だしきに至っては自分を一人の煉功人として対処することができない, これでは駄目だと私は言う。私は以前修煉した時,多くの高人は私にこういう話を言った ことがあり,彼は:“難忍能忍,難行能行。”と言った。実際はこうなのだ,皆さんが帰 ったらやって見て差し支えない。真の劫難の中で或いは関を越える中で,あなたは試して 見て,忍し難くても,あなたは忍して見なさい;できないと見ても,でき難いと言っても ,あなたは一体できるかどうかを試して見なさい。若しあなたは本当にできたのならば, あなたは本当に柳暗花明に又一村ということを発見できる
私はあまりに沢山話した,あまりに沢山話したから皆さんはなかなか覚えられない。私 は主要に少し要求を出すが:皆さんは今後の修煉の中で,自分を一人の煉功人とし,真に 修煉して行くことを希望する。私は新しい学員も古い学員も,皆大法の中で修煉し,皆功 成り圓満になることを希望する!時間を無駄にしなく実修するように望んでおる。