気功と体育
一般の層次の中に於いては,人々は気功と体育鍛練は直接の関係があると思いがちであ
る。勿論低層次に於いて言えば,一つの健康な身体を得るという一方面から見れば,気功
と体育鍛練は一致するのだ。しかし具体的なその鍛練方法,採用した手段は体育鍛練と差
異がかなり大きい。体育鍛練は人の身体の健康に達するには,人の運動量を増強し,人の
身体の訓練を強化する;気功修煉は丁度反対で,人を動かさないようにし,動いても緩、
慢、圓なのだ,ひいては動かず、静止する。これは体育鍛練の形式との差異がかなり大き
い。それでは高層次へと言えば,気功はただ
病健身だけでなく,
それは更に高い層次のものがあり,更に深い内涵がある。気功は常人という層次の中のそ
れくらいのものだけでなく,それは超常なもので,そして違う層次に皆それの違う顕現が
あり,それはこの様な一つの常人を遥かに超えるものである。
鍛練の本質から見れば,それらの差異もかなり大きい。運動選手は運動量を増やすこと を要求される,特に現在の運動選手は,自分の身体を現代のこの競技水準に適応させ,そ の基準に達する為に,それで彼は身体をずっと最良の状態に置くようにする。この目標に 達する為に,運動量を増大し,人の身体を充分に血液循環できるように促進し,従って彼 の代謝能力を増強し,身体にずっと上へ向かう状態を保持させる。何故代謝能力を増強す るのか?運動選手の身体は永遠に上向きの最良の競技状態を呈しなければならないからで ある。人の身体は無数の細胞から組成したもので,これらの細胞は皆この様な一つの過程 がある:新しく分裂した細胞は生命力がかなり強く,上へ発展することを呈している。極 限に達した時,それはもう発展することができなくなり,下降しかできず,ずっと極点に 下がった時,また新しい細胞がそれに取って代わる。例えば,一日に十二時間で譬えて言 うと,朝六時から細胞が分裂して来て,ずっと向上、向上を呈し,八、九時,十時頃まで は非常に良い時期である。十二時になると,それはもう上がれなくなり,下へ滑るしかで きない。この間の時間に細胞にはまだ半分の生命力があるが,この半分の生命力はもう運 動選手の競技状態に適合しない。
それではどうしようか?彼は訓練を強化し,彼の血液循環を強め,それから新しい細胞 を生じてその古い細胞を取り替える,それはこういう道を歩む。つまり,細胞の全過程は まだ歩み終わらず,半分の生命過程まで歩んだばかりでそれを排泄するから,身体は何時 も強壮、向上を保持する。しかし人類の細胞は無制限にこの様に分裂することができず, 細胞の分裂回数は限りがあるのだ。仮に人の一生に細胞が百回分裂できるとすれば,実際 は,百万回にも止まらないのだ。仮に言えば正常人の細胞が百回分裂して百年生きること ができるなら,しかし現在の細胞がただ生命の半分だけ生きた,それで彼は五十年しか生 きることができない。けれども我々はどの運動選手に大きな問題が出現したことを見られ ていない,今の運動選手は三十歳にならない内に淘汰され,特に現在は競技水準も高いし ,運動選手の淘汰量も大きいので,彼は又正常な生活を回復し,あまり大きな影響が無い ように見える。理論から見たら実質はこうである,彼の身体に一つの健康な機体を保持さ せることができるが,彼の生命を短縮する。外観から見れば,十何歳の運動選手は二十何 歳と見える;二十何歳のものは三十何歳の人と見える。往々にして運動選手が人に与えた 感覚は早熟と老衰と見え,利あらば弊もある,弁証法的に見るべきだ,実はこの様な道を 歩んだのだ。
気功修煉は体育鍛練と丁度反対で,動作上では猛烈に運動する要求は無く,動作があっ ても緩、慢、圓で,非常に緩慢で,甚だしくは動かず,静止する。皆さんの知っているよ うに禅定という修煉方法は,そこに静止しており,脈拍の速度が緩慢になり,血液循環な ど一切は皆緩慢になる。インドにはヨガ師が多くいる,何日間も水の中に座ったり,何日 間も土に埋められたりして,完全に自分を静止させることができる,ひいては脈拍をも制 御できる。もし人の細胞は一日に一回分裂すれば,それでは修煉者は人体細胞を二日に一 回分裂させ,一週間に一回分裂させ,半月に一回分裂させ,ひいてはもっと長い時間に一 回分裂させるなら,それで彼は既に彼の生命を延長している。これはただその性を修める が命を修めない功法だけであるが,それもこの一点に達することができ,自分の生命を延 長することもできる。ある人はこう考えた:人の生命,人の一生は決まっているのではな いか?命を修めない者はどうして長く生きられるのか?そうだ,修煉の人は層次が三界を 突破すれば延長できる,但し表面からかなり老けて見える。
真に命を修める功法は,採集して来た高能量物質を人体の細胞の中に不断に蓄え,不断 にその密度を増大する時,次第に常人の細胞を抑制することができるようになり,段々と 常人の細胞を取り替える。その時質的変化が発生し,この人は青春をいつまでも保つよう になる。勿論修煉の過程中はかなり緩慢な過程であり,払いは相当大きい。其の筋骨を労 し,其の志を苦しめることは,なかなか容易なことではない。人と人との間は心性の摩擦 の中で心を動かさないことはできるだろうか?個人の切実な利益に於いて心を動かさない ことはできるだろうか?これらの事情はやるのはなかなか難しい,だからこの目的に達し たいと思いさえすれば達することができることではない。人の心性,人の徳は皆修め上げ て来てから始めてこの様な目的に達することができる。
従来より多くの人は気功と一般の体育鍛練を混同するが,実は差別は余りにも大きく,
根本的に同じことではない。ただ最低の層次で気を練る時,
病健
身を講じて,一つの健康な身体に達する,最低の層次の目的は体育鍛練と共通性がある。
しかし高層次上に着くと,全くそんなことではない。気功による身体の浄化にも目的があ
るのだ,そして超常の理で煉功人に要求し,常人の理で要求してはならない。体育鍛練は
ただ常人の中の事である。