周天

 道家の中で大小周天を重んじている,我々は周天とは何かを述べよう。我々が一般に言 う周天は任督の二脈を繋がせることである,この周天は皮毛周天で,何も成らないもので ,ただ病健身のものだけで,これは小周天と呼ばれる。別に一種 の周天があり,それは小周天とも言わないし,大周天とも言わず,禅定の中で修煉する一 種の周天形式である。それは身体の中から,泥丸から一周廻って下りて,身体の中から丹 田まで一周廻って上がって,内在の循環をする,それは真の禅定中で修煉の周天である。 この周天は形成してから一つのかなり強い能量流をも形成し,それから一脈が百脈を率い て,他の脈を全て率いて開く。道家は周天を重んじるが,佛家は周天を重んじない。佛教 は何を重んじるのか?釈迦牟尼は彼のその揃いの法を伝える時功を言っていず,功を重ん じないが,彼の功法にも彼の修煉の演化の形式がある。佛教の脈はどういう走りであるか ?百会穴という点をすっかり通じるようにしてから,螺旋式的に頭上から身体の下へ発展 し,最後この形式で百脈を率いて開く。

 密宗の中脈もこの目的である。ある人は中脈が無いと言ったが,それでは何故密宗は中 脈を修煉し出せるのか?実は人の身体のあらゆる脈を合わせると,一万以上に止まらず, 血管のように縦横に交錯して,血管よりも多い。内臓の隙間部分に血管が無いが,脈があ る。頭上から身体の各部位までも縦横に交錯する脈絡であり,それらを連接して,最初の 時真っすぐではないかも知れないが,連接して打ち通す。それから段々と広くなり,次第 に一本の直脈を形成した。この脈を軸として自転し,その水平に回る意念の幾つかの輪を 動かす,目的は身体の全ての脈を全部率いて開くことである。

 我々法輪大法の修煉は一脈が百脈を率いるという形式を避け,初めから百脈を同時に率 いて開き,百脈が同時に運転するように要求する。我々はさっとかなり高い層次に立って 煉り,かなり低いものを避ける。一脈が百脈を率いるが,それを全部率いて開くことは, ある人が一生煉ってもできない;ある人は数十年修煉しなけばならない,とても難しいこ とだ。多くの功法は一世だけでは修成できないと言った,多くの高くて深い大法の中で修 煉する人は寿命を延長することができる,彼は命を修めることを重んじるではないのか? 寿命を延長して修煉でき,長い時間を修煉できる。

 小周天は基本的に病健身のものであり,大周天は功を煉ること で,人が真に修煉することである。道家が指した大周天は我々のように激しくて,百脈を 全部率いて開くことではない。彼はその幾つかの脈の運転であり,手の三陰三陽,脚下、 二足ずっと髪の毛、身体まで全部一遍通る,これが大周天循環である。大周天は初めから 真の煉功であるから,一部の気功師は大周天のことを伝えず,彼の伝えたのは 病健身のものである。一部の人も大周天を講じたが,あなたにものを下して いない,あなた自分も通らせられない。ものを下さず,自分の意念により通すことは,口 で言う程容易ではない!体操をやるように,それを通すことはできるものか?修は自分に あり,功は師父にある,内在のこの“機制”を全部あなたに下して始めてこの様な一種の 作用をすることができる。

 道家は従来より人体を一つの小宇宙と見なしており,彼は宇宙の外はどれほど大きけれ ば,中もどれほど大きい,外はどんな様子ならば,中もどんな様子だと思っている。これ は言えば不思議で,あまり容易く理解できないようである。この宇宙はこんなに大きくて ,どうして人の身体と比べられるだろうか?我々はこの様な道理を言おう,我々の現在の 物理学は物質成分を研究して,分子、原子、電子、陽子、クオークからずっと中性粒子ま で,だが,更に下へ行けば幾ら大きいのか?その一歩になると顕微鏡では既に見えなくな り,更に下へ行けば極めて小さい微粒子は何だろうか?分からないのだ。実は我々の現在 の物理学が認識したこの一点は,この宇宙の中の一番微小な微粒子と比べれば言えないほ ど掛け離れているのだ。人は肉身が無い時,人の目はものを見れば一種の拡大な作用をす ることができ,微視的に見える。層次が高くなればなるほど,微視的に見えたものは大き くなる。

 釈迦牟尼はそのような一つの層次に於いて,彼は三千大千世界の学説を説いた,つまり この銀河系の中には,まだ我々人類のような色身を持つ人が存在している。また一粒の砂 の中に三千大千世界が含む説を説いた,我々の現代物理学の認識と合致するのだ。電子が 原子核を回って回転する形式は地球が太陽を回って回転することと,違う所があるだろう か?だから釈迦牟尼は言っていた,微視的には,一粒の砂の中に三千大千世界があり,そ れは一つの宇宙のように,中に生命があり物質がある。若し本当なら,皆さん考えて下さ い,それではその砂の中の世界の中にはまた砂があるではないか?それではその砂の中の 砂の中にはまた三千大千世界があるではないか?それではその砂の中の砂の中の三千大千 世界にはまた砂があるではないか?下へ追って行けば尽きることがない。だから釈迦牟尼 は如来という層次に達したが,彼は却ってこの様な一句の話を言った:“其の大は外が無 く,其の小は内が無い。”大は,宇宙の果てしが見えない;小は,その本源物質の一番微 小のものは何か見えない。

 ある気功師は言っていた:汗毛孔の中に都市がある,中で汽車が走ったり,自動車が走 ったりしている。聞くと不思議だと思うが,我々は科学角度に立って本当に理解をし、研 究をすれば,この言い方は不思議なことはないと気付く。あの日私が開天目を講じた時, 多くの人は天目が開いてこの様な景象が出現した:彼は彼の前額のこの通道を外へ走り, 永遠に突き当たりの所まで着けないように気が付いた。毎日煉功してもこの一筋の大道を 外へ走り,両側に山があり、水があり,走る時まだ都市を経過し,まだ大勢の人にも会っ た。彼は幻覚だと思った。どういう事だろうか?はっきりと見えて,幻覚ではないのだ。 私が言う,若し人の身体は微視的に見てそんなに宏大であれば,それは幻覚ではない。道 家の煉功は従来より人体を一つの宇宙だと見なしている,若し本当に一つの宇宙なら,前 額から松果体まで10万8千里に止まらない,あなたが外へ突進して見なさい,かなり遠 いのだ。

 若し修煉過程の中で大周天を全部打ち通してから,修煉者に一種の功能をもたらすはず だ,どんな功能だろうか?皆さん知っているように,大周天は子午周天とも呼ばれ,乾坤 周天とも呼ばれ,河車運転とも呼ばれる。かなり浅い層次の中で大周天が運転すれば一つ の能量流が形成され,それは次第に密度を増大し更に高い層次の中へ転化し,密度がかな り大きい一つの能量帯になる。この能量帯が運転しており,運転する過程に,我々はかな り浅い層次の中にいて天目で見れば,それが身体の中の気に位置を換えさせられると気が 付く:心の気が腸に飛んだ;肝臓の気が胃袋に飛んだ‥‥‥若し微視の下に於いてはそれ が運搬したのはかなり大きなものだと見え,若しこの能量帯を体外に打てば,それが搬運 功である。功がかなり強い人は,かなり大きなものを運搬でき,それは大搬運である。功 がかなり弱い人は,とても小さいものを運搬でき,それは小搬運である。これが搬運功の 形式とその生成である。

 大周天は直接に煉功であるから,違う状態と功の形式をもたらすことができ,それは我 々に一つの極めて特殊な状態をもたらすこともできる。どんな状態であるのか?皆さん古 書の中に,例えば《神仙伝》或いは《丹経》、《道藏》、《性命圭旨》の中に皆この様な 一句の話が書いてあり,“白日飛昇”と呼ぶ,つまり真昼間にこの人が飛ぶのだ。実は私 は皆さんに教えておくが,大周天が通るとこの人は飛べるのだ,こういう簡単な事である 。ある人は,こんなに長年の煉功をして,大周天が通った人は少数ではないだろうと思っ た。私に言わせれば何万人もこの程度に達することができたと言っても不思議なことはな い,大周天は何と言っても煉功の始まりであるからだ。

 それでは何故これらの人が漂うことを見られないのか?彼が飛ぶことを見られないのか ?常人社会の状態は破壊してはならない,常人社会の社会形式を勝手に破壊し或いは改変 してはいけない,人が皆天上を飛ぶならそれはいけるのか?それは常人社会であるのか? これは主要な一方面である;もう一方面は,常人の中の人は人になる為ではなく,返本帰 真の為であり,だからまだ一つの悟性の問題がある。彼は多くの人が確かに飛べることを 見たら,彼も修めに行く,それで悟性の問題が存在しなくなる。だからあなたは修行した が,他人に勝手に見させてはならず,人に示してはならない,他人はまだ修めなければな らない。だから大周天が通った後,あなたの手指先、足指先或いはある部位を閉鎖さえす れば,あなたが浮かなくなる。

 我々は往々に大周天が間もなく通ろうとする時,一つの状態が出現する,ある人は打坐 する時身体が何時も前へ傾く。後背が割りと良く通ったから,後背はとても軽くなり,前 が重いと感じる;ある人は後ろへ仰向き,後背が重く,前が軽いと感じる。若しあなたは 全部良く通ったら,それであなたは上へ揺れ,自分が上へ抜かれ,地を離れる感覚がある 。一旦本当に浮き上がるようになった時,あなたを浮き上がらせないのだが,絶対なこと ではない。功能が出るものは両端にあり,子供は執着心が無く,老年人は特に老年婦人は 執着心がないので,功能が出易く,保持しやすい。男性であれば特に若いものは,一旦功 能があったら,彼が誇示しようとする心理は避けられない,同時に彼はそれを常人の中の 一種の競争手段とするかも知れない。これでそれが存在することを許さず,煉り出したと してもそれを閉鎖するのだ。一つの所だけ閉鎖すれば,それでこの人は漂うことができな くなる。絶対に全てあなたにこの状態を出現させないと言うことでもなく,あなたに試し てやらせるかも知れない,ある人は保持して行くことができる。

 各地で班を行った時皆この情況があった。私が山東で班を行った時,済南の学員も、北 京の学員もあった,ある人は:先生,私はどうしたのでしょう,歩く時地を離れようとし ,家で寝る時浮き上がり,掛け布団を掛けたが掛け布団まで浮き上がり,何時も気球のよ うに浮き上がると言った。私が貴陽で班を行った時,一人の貴州の古い学員は,おばあさ んであり,彼女の部屋にベッドが二つ置かれ,それぞれ一つずつ両側の壁に寄せて置いた 。彼女がベッドに座って打坐をしており,彼女は自分が浮き上がった気がしたから,目を 開いて見ると向こう側のベッドに浮いて行った;彼女は,私が帰らなくてならないと思う と,又浮いて戻っていた。

 ある青島の学員は,昼休みの時室内に人がいないので,彼はベッドの上で打坐すること にした,彼が打坐すると上がるようになり,上に酷く揺れて,一メートル余りの高さにも 飛んだ。上がってから又落ち,どんどん上下に揺れて,布団も揺れて床に落とした。少し 興奮したが,少し怖がりもした,揺れに揺れては昼休み一杯揺れた。最後に始業ベルが鳴 った,心は:人に見られてはいけない,何をしているのかと思われるから,早く止まって くれと思った。それで止まった。これは何故老年人が把握できるかの訳だ。若し若者なら ,始業ベルが鳴ると,皆見てご覧,僕が飛んだよ。人はあまり容易く自分の顕示心を把握 できないことがここにある:ほら僕の功はどれ程良く煉ったのか,僕が飛べるのだ。彼が 誇示すると無くなってしまい,この様に存在することが許されない。こういう事が沢山あ り,各地の学員もいる。

 我々は初めから百脈を全部開く。今日まで,我々の八、九十パーセントの人は現在身体 が軽快な状態に達して,病が無くなった。同時に我々が言ったように,この班であなたを この様な一種の状態に推してやり,あなたの身体を完全に浄化させ,その上あなたの身体 の中に多くのものを下してやり,あなたに班で功を出させ,私はあなたを抜き上げて又前 へ送るのに等しいことをした。私はずっと班で皆さんに法を説いており,皆さんの心性も ずっと変化を発生している。我々の多くの人はこの講堂を歩き出てから,あなたは別の人 になったような感じがする,あなたの世界観もきっと変化が起こった,あなたはあなたが 将来どの様に人をするか,そのようにぼんやりとしてはいけないと分かるようになった, 必ずこうなるのだ,だから我々の心性が既に付いて来た。

 大周天を言うが,あなたを浮かせないが,あなたは身体が軽快で,歩きは風を起こすよ うだと感じられる。以前ちょっと歩くと疲れたが,今は幾ら歩いても軽やかだと感じ,自 転車に乗るなら誰かがあなたを推すようで,ビルの階段を上って幾ら高く上っても疲れな い,きっとこうであるのだ。この本を読んで自修するものは同様にあるべき状態に達する ことができる。私という人は私は言いたくない話なら,私は言わなくても良いが,私が言 い出したのは本当の話でなければならない。特にこの状況の下に,私が法を説いている時 私は本当の話を言わず,ここで眉唾物の話を言えば,的が有って矢を放つようにできずに 勝手に出鱈目を言えば,私は邪法を伝えているのだ。私がこの事をするのは容易なことで はなく,宇宙の中では皆見ている,あなたは歩き偏ってはいけない。

 一般の人はこの様な一つの周天があるということを知ればもう終わりだが,実はこれは まだ駄目だ。身体を完全に高能量物質にできるだけ速く取り替え,転化されることに達す るには,また一種の周天形式の走向を必要とし,あなたの身体のあらゆる脈の走向を率い 動かす,それは卯酉周天と呼ぶ,分かる人は非常に少ないかも知れない。本の中にはある 時この様な名詞に言及するが,それを講じる人はいないし,あなたに教えない。皆理論を 巡って遠回しをしている,秘中の秘だもの。我々はここで全部言い出してやる:百会穴か ら始まっても良い(会陰穴から出ても良い),打ち出されて陰陽両面の境の処を歩み,耳 の縁から下りて,それから肩を通って下りる。一手指の隙間に又一手指の隙間を歩む。そ れから身体の側面を歩み,足底を通り,股下の片側から上がって来る。それからもう一方 の片側から下りて, 又足下を通って, 身体の側面から上がって来る* 一手指の隙間に又一 手指の隙間を通り,一周廻って頭上に着く,これが卯酉周天である。他人では一冊の本も 書けるが,私はちょっとだけの話で言ってしまった。私はこれは何も天機と言う程でもな いと思う,しかし他人はこれらのものは皆かなり貴重なものだと思って,根本的に言わな いのだ,真に徒弟に伝える場合だけ卯酉周天を講じるのだ。私は言い出したが,誰でも意 念で導いたり、制御して煉ったりしてはならない,あなたが煉るならば我々の法輪大法で はなくなる。真に高層次上へ修煉することは無為であり,如何なる意念活動も無く,全部 あなたに有り合わせのものを下してやる。これらは皆自動的に形成したもので,これらの 内在の機があなたを演煉しており,時間になるとそれが自転するはずである。ある日あな たが煉功する時頭が揺れる,頭はこっちへ揺れるなら,それはこの様に回る;頭はそっち へ揺れるなら,その様に回る,両側とも回るのだ。

 大、小周天が通じてから,打坐は頭がうなずくはずである,これは能量が通過する現象 である。我々が煉る法輪周天法も同じで,我々はこの様に煉るのだが,実はあなたが煉っ ていない時それが自分で回っている。平時永遠に回っている,あなたが煉る時はこの機を 強めるのだ。我々は法が人を煉ると言ったじゃないか?平時あなたはあなたのその周天が 何時も循環していると気が付き,あなたが煉功をしていないが,外に下したこの気機は, 一層の外在の大脈があなたの身体を率い動かして煉っており,皆自動的である。それはま だ反転でき,正反両面とも回るのであり,何時でもあなたの脈を通している。

 では周天を通す目的は何だろうか?周天を通すこと自身は煉功の目的ではない。あなた は周天が通っても,私に言わせれば何でもない。更に修め続けて行けば,目的は周天とい う形式を通じて一脈で百脈を率いて,身体の脈,あらゆる脈を全部率いて開くことである 。我々は既にこの事をやっているのだ。続けて煉って行けば,ある人は大周天を歩む時, 脈をとても広く煉ることができ,手指のように,中がかなり広くなると発見するはずであ る。能量もかなり強くなり,能量流が形成してからそれはかなり広くなるし,かなり明る くなる。これもまだ何もならない,それではどの程度まで煉るのか?人の身体の百脈を次 第に広くし,能量が益々強くなり,益々明るくなる。最後に万に上る脈を一面に繋がらせ て,無脈無穴の境地に達して,身体全体を一面に繋がらせる,これは脈を通して最終に達 する目的である。その目的は人の身体は全部高能量物質に転化されるのである。

 この一歩まで煉った時,人の身体は基本的に高能量物質に転化された,つまり既に世間 法修煉の最高層次まで煉っており,人体の肉身は既に最頂点に修煉したのだ。この一歩に 至った時,また彼に一種の状態をもたらすはずである,どういう状態なのか?彼の功が既 にかなり豊富に出た。常人の身体の修煉は,つまり世間法修煉の過程に於いて,人のあら ゆる特異功能(潜在功能),一切のものが全部出て来たが,常人の中で修める場合大部分 は閉鎖されているのだ。そして彼の功柱はもう相当高くなり,一切の功の形式は,全部強 大な功に相当強く加持された。しかし彼は我々のこの現有の空間の中だけで作用が働ける が,他の空間を制約することができない,それはただ我々常人の肉体から修煉して出来た ものだけであるからだ。とは言えもう相当豊富になった,各空間の中に,不同の空間の中 にいる身体の各種の存在形式に於いて,皆相当大きな変化が発生した。その身体に持って いるもの,各層空間にいる身体に持っているものは皆相当豊富となり,見えれば恐ろしい 。ある人は身体の至る所に眼があり,身の全ての汗毛穴は眼であり,彼の空間場全体の範 囲内のどこにでも眼がある。佛家功だから,ある身体は全身が菩薩、佛の形象である。各 種の功の形態は既に極めて豊富な程度に達した,そしてまだ多くの生命体も現れて来る。

 この一歩に至った時,それは又一種の状態が出現し,“三花聚頂”と呼ぶ。それは非常 に顕著な一つの状態であり,非常に目立ち,天目層次が高くない人も見られる。頭上に三 輪の花があり,一輪は蓮花で,しかし我々の物質空間の中の蓮の花ではなく,他の二輪も 別の空間の花で,非常に美妙である。三輪の花が順番になって頭上で回転し,右回りして 、左回りする,三輪の花が自転することもできる。各花にも一本の大きな柱があり,花の 直径と同じ太い。三本の大きな柱が天頂に直通しているが,それは功柱ではなく,それは 即ちこの様な一種の形式で,非常に玄妙である,あなた自身でも見たら吃驚する。この一 歩まで修煉した時,身体は白くてきれいで,皮膚のきめも細かくなる。この一歩に至った 時,世間法修煉の最高形式に到達したのだ。しかしこれはまだ頂点に到達したことではな く,まだ続けて修煉して行き,まだ前へ歩まなければならない。

 更に前へ歩めば,世間法と出世間法との間の過渡層次に入り,『浄白体』(晶白体とも 言う)状態と呼ぶ。身体は世間法の最高形式に修煉したとしても,人の肉身が最高形式に 転化したのに過ぎない。真にその形式に入る時,身体全体は完全に高能量物質で構成され た。何故浄白体と言うのか?彼が既に絶対的な高度純粋な浄化に達したのだ。天目で見れ ば,身体全体は透明で,透明なガラスのようで,見れば何も無い,この様な一種の状態を 呈するはずだ,はっきり言うと,彼は既に佛体になったのだ。高能量物質で構成した身体 と我々本来の身体とは既に違っていた。この一歩に至った時,身体に出現した一切の功能 と術類のものはさっと全部捨ててしまい,それを一つのかなり深い空間の中に卸し入れ, 用途が無くなった,これからもう用途が無いのだ。将来あなたが修成得道したあの日,あ なたが振り返ってあなたの修煉の過程を見て見たいなら,それを持ち出して見るだけに過 ぎない。この時二つのものだけが存在している:功柱がまだあり,修煉した元嬰はもうか なり大きくなった。処がこの二つのものは皆一つのかなり深い空間にいるから,一般の人 は天目層次が高くないので見られず,彼はこの人の身体が一つの透明体であることを見ら れるだけである。

 浄白体の状態は過渡層次であり,更に修煉して行く時,それで真に出世間法修煉に入り ,佛体修煉とも言える。身体全体は功で構成されたもので,この時人の心性も既に安定に なった。再び新たに煉り始め,新たに功能が出始める,それは功能とは呼ばず,“佛法神 通”と呼ぶ。それはあらゆる各空間を制約でき,威力は無窮である。将来あなたが不断に 修煉するにつれて,更に高い層次のものを,自分が如何に修煉するかと修煉の存在形式を 知る筈だ