武術気功
内修功法の外に,まだ武術気功がある。私は武術気功を述べる時,まだ一つの問題を強 調したい,現在修煉界には沢山の気功の説がある。
現在又美術気功とか、音楽気功とか、書道気功とか、舞踏気功とか、様々なものが出て 来た,何れも気功か?おかしいと私は思う。私に言わせればこれは気功に害を及ぼすこと で,気功に害を及ぼすばかりでなく,まるで気功を侮辱することだ。理論的根拠は何か? 絵を描く、歌いを唄う、踊りを踊る、字を書くなどをする時,そのぼんやりする状態,所 謂気功態に入れば,気功になるのだろうか?この様に問題を認識してはならない。私に言 わせればそれは気功を侮辱することではないか?気功とは人体修煉の一種の「博大精深」 の学問である。おお, ぼんやりは気功なのか?それでは我々はぼんやりトイレに入れば何 と言うのか?それは気功を侮辱することではないか?私に言わせればそれが気功を侮辱す るのだ。一昨年の東方健康博覧会で,書道気功というものがあった。書道気功とは何だろ うか?私は書道気功の所に行って見ると,その人は筆を持って字を書き,書き終わってか ら,手で一字一字の上に気を発して,発したのは全部黒い気だった。頭は金や、名声なこ とで一杯で,功などありえるものか?気があっても良い気ではない。そこに掛けて売る値 段もけっこう高かったが,彼のものを買った人は皆西洋人だった。私に言わせると誰が買 って持って帰れば誰が酷い目に遭う。その黒い気には良いものがありえるか?その人の顔 を見れば黒色を帯び,彼が銭の穴に潜り込んで,金のことばかり考えて,功がありえるも のか?この人の名刺の上に沢山の名目が書いてある, 何か国際書道気功云々。私に言わせ ればこのものなんて気功と言えるものか?
皆さんも考えてください,私のこの班から下りた人,我々の今日の八、九十パーセント の人は下りて病気が治ったばかりではなく,あなたに功,本当の功が出るのだ。あなたの 身体に持っているものは既に相当超常で,あなたは自分だけで煉るなら,一生掛けても煉 り出せない。若者は今から煉り始めて,一生掛けても私の下してやったこれらのものを煉 り出せず,そして本当の明師があなたを教えることでなければならない。我々はどれくら いかの世代の人を経て初めてこの法輪とこれらの「機制」を形成したのだ,これらのもの は一遍にあなたに下してやった。だから私が皆さんに教えておく,容易に得て容易に失う ようなことをしてはいけない。これは極めて貴重なもので,価値で計れないものだ。我々 はこの班から下りて,あなたの持っているのは真正の功であり,高能量物質である。あな たも家に帰って少し字を書けば,字が上手か下手か別として,功があるものだ!だから我 々の班から下りて,一人一人に皆“師”という字を付ければ,皆書道気功師となったのか ?この様に認識してはいけないと私は言う。真に功のある人,能量のある人なら,あなた はわざわざ発しなくても,あなたの触ったものに能量が残って,皆ぴかぴか光っている。
私が又一冊の雑誌を読んで,書道気功学習班を行う,というニュースが載せた。私はち ょっと開いて,どのように教えるかを読んで見た。中にこの様に書いてある:先ず息を調 整し、呼吸をして,それから座禅を組んで意念で丹田の気を考え,十五分間から半時間ま で座禅して,意念で丹田の気を持ち上げて前腕に入れることを考えて,筆を持ち上げ墨を 付け,また筆先に気を運ぶ。意念が着いたら,字を書き始める。それは人を騙すことでは ないか?おー,気をどこに持ち上げれば何かの気功になるのか?それでは我々はご飯を食 べる時,しばらく座禅して,箸を持ち上げ,気を箸の先に運んでご飯を食べる,それで食 事気功と呼ぶ,そうではないか?食べたものは皆能量であるのだ,この事を言うのだけだ 。私に言わせれば気功を侮辱することだ,彼は気功をこんなに浅薄に見た,だからこの様 に認識してはいけない。
しかし武術気功は既に一門の独立した気功と言えるのだ。何故だろう?それには数千年 の伝承過程があり,それには完備な一揃いの修煉理論とまる一揃いの修煉方法があるため ,それは完備な一揃いのものだと言える。とはいうものの,武術気功も我々内修功法の中 で最低層次の中のものだ。硬気功は一種の物質能量塊で,単一的に打撃するために使うも のだ。皆さんに例を挙げよう,北京に一人の学員がいる,我々の法輪大法班から下りて以 後,手が物に触れられないようになった。デパートに行って児童用の車を買い,その車が 丈夫かどうかを手で試して見ようと,ちょっと押さえると,「ぱらっ」と,ばらばらにな った,彼はおかしいなあと思った。家に帰って椅子に座れば,彼は手で押さえることがで きず,手で押さえるとその椅子が「ぱらっ」と壊れた。彼は私にどういう訳か聞いた。私 は彼に教えなかった,彼が執着心を生じることを心配するからだった。これは皆自然状態 で,自然に任せて,それを気にしないで,どれも良い事だと私は言った。その功が良く運 用されれば,その石は手で握ると粉になる。これは硬気功ではないか?しかし彼は硬気功 を煉ったこともない。内修功法の中にこれらの功能が一般に皆出るはずだが,人の心性は 把握できないので,往々に功能が出ても使用させない。特に低層次で修煉する時,人の心 性がまだ高まっていない場合,低層次に出たこの功能を,根本に持ち出してあげない。長 く続ければあなたの層次が高くなった時,これらのものは何の作用もなくなるから,持ち 出すことをやめるわけだ。
武術気功は具体的にどのように煉るのか?武術気功を煉るのなら彼は気を運ぶことを重 んじる。しかし始めにこの気もうまく運べない,あなたは気を運ぼうと思えば運ぶことが できるのか?彼はまだ運べないのだ。それではどうしようか?彼は彼の手,身体両側或い は足、股、前腕上腕、頭を皆煉るべきだ。どういうふうに煉るのか?ある人は手で木を叩 き,掌で木を叩く。ある人は手を石の板に放り投げ,パンパンと投げる。この骨が当たっ たら何と痛いだろう,ちょっと力を入れても血が出る。この気はやはり運び出せない。ど うしょうか?彼は腕を振り回し始め,血を逆流させて,腕、手が張るようになる。実際は 腫れたのであり,それから彼は石の上に投げ,骨は敷かれて,直接石に当たらないから, それ程痛くなくなる。彼が煉功するにつれて,師父が彼に教えるはずで,長く続ければ彼 は気を運べるようになる。処が気を運ぶだけでは足りなく,真に打撃する時,相手は待っ てくれない。無論人は気を運ぶことができる時もう打撃に耐えられるのだ,太い棒を持っ て打っても痛くないかも知れず,彼は気を運んでから張るようになる。しかし気は初期の 一番原始的なもので,彼が絶えずに煉るにつれて,この気は高能量物質に転化する。それ が高能量物質に転化した時,段々一種の密集度が非常に大きい能量団を形成する。この種 の能量団は霊性があるので,それは又一つの功能団であり,つまり一種の功能になったの だ。但しこの功能は打撃、打撃抵抗に専ら用いるもので,それで病気を治療しては効き目 がない。その高能量物質は別の空間にあり,それは我々のこの空間を歩むのではないので ,そちらの時間は我々のより速い。あなたは他人を打撃する時,気を運ぶことも要らず, 考えも要らず,その功が既にそこに着いた。他人があなたを打つ時,あなたが遮る時その 功が既にそこに着いた。あなたは手を出すのが幾ら速くても,それはあなたよりも速い, 両方の時間概念が違う。武術気功を煉って鉄沙掌、朱沙掌、金剛腿、羅漢腿などを煉り出 すことができるが,これは常人の腕前である。常人は鍛練を経てからこの一歩に達するこ とができる。
武術気功と内修功法の最大の区別は:武術気功は運動の中で煉ることを要求するから, 気が皮下を通る。運動の中で煉るから,入静できず,気が丹田に入らず,気は皮下を通り ,気は筋肉を貫く,だから命を修められず,高く深い功夫をも修煉し出せない。我々の内 修功法は静の中に煉ることを要求する。一般功法は気が丹田に入り,気が下腹に入ること を重んじ,静の中に修煉することを重視し,本体転化を重視し,命を修められ,更に高い 層次に修煉することができる。
皆さんはこういう功夫があることを聞いたかも知れない,小説の中に金鐘罩、鉄布衫、 百歩穿楊のことが書いてある。軽功と言うと,ある人は高く来たり高く行ったりすること ができる;ある人はひいては別の空間の中に身をくらますことができる。この功夫はある のか?ある,これは間違いがないのだ,しかし常人の中には無い。真にこの高い功夫を煉 り出した人,彼も持ち出して誇示をすることができない。彼は単一的に武術を煉ることに より煉り出したのではなく,全く常人の層次を超えたのだ,それでこの人は内修功法によ り修めなければならない。彼は心性を重んじ,彼の心性を高めなければならず,彼は物質 利益などのものを全てかなり淡泊に見ているのだ。彼はこの功夫を修め出せるが,これか らは常人の中で勝手に使うことができなくなり,人の見ていない時自分でやっても良い。 小説の中に書いてあることを見なさい,その人は何かの剣の図の為に,宝を奪う為に,女 の為に,殺したり戦ったりし,一人一人の腕前がかなり大きくて,不可思議なのだ。皆さ ん考えてください,真にこの功夫がある人は彼は内修により修め出したのではないか?彼 は心性を重んじて修め出したのであり,名利と各種の欲望に対してとっくに淡泊に見た, 彼は人を殺すことなどやれるものか?彼はその金や物をそんなに重く見られるだろうか? 根本に不可能だ,それは芸術の誇張だけだ。人は精神的刺激を追求するので,どのようし て満足できればどのようにする。その作者もこの特徴を掴んだ,所詮あなたに満足させ, 喜ばせることができれば,彼は力を出して書く。不可思議に書くほどあなたは読むのが好 きだ,それは唯芸術の誇張だけだ。真にこの功夫のある人はこのようにやるはずは無いの だ,特に持ち出して演出するのは尚更いけない。