煉功招魔

 煉功招魔とは何か?つまり我々が煉功する時,往々に何らかの邪魔を受けやすいことで ある。煉功は何故魔を招けるか?一人の人が修煉しようと思うならなかなか難しいからで ある,真に修めるには私の法身の保護がなければ,あなたは全く修成できない,あなたは 出掛けると生命の問題に及ぶかも知れない。人の元神は不滅のもので,それであなたは生 前の社会活動の中で,誰かに借りがあったとか,誰かを苛めたとか,或いは何か良くない 事をしたかも知れないから,その債権者はそれであなたを捜す。佛教の中に言っているよ うに:人が生きることは業力の輪報である。あなたは彼に借りがあれば,彼が来てあなた に借りの返済を求め,取り過ぎたら次に彼はまたあなたに返す。息子は親孝行をしなけれ ば,今度は反対になる,このように繰り返して回る。しかし我々は確かに魔が邪魔をし, あなたに煉功させないのが見えた,これは何れも因縁関係があり,何の理由も無い事では ない,何の理由も無ければそれがこうするのは許されないのだ。

 最も普遍的な一種の「煉功は魔を招く」の形式は,つまりあなたが煉功していない時, 周囲の環境が割りに静かである。功を学んだから,何時も煉るのが好きであるが,そこに 打坐すると,突然外は静かでなくなると感じた。車の警笛も鳴るし,廊下に歩く音、喋る 声、ドアの叩く音が聞こえるし,外のラジオも付けられて,直ちに静かでなくなった。あ なたは煉功しなけば環境はいいが,あなたは煉功するとこうなるのだ。我々の多くの人は 深く思っていないが,一体どんな事だろうか,ただおかしいと思い,がっかりして煉功が できない,一つの「おかしい」だけで阻止された,これは魔があなたに邪魔しているので あり,それは人を指図してあなたに邪魔している。これは一種の最も簡単な邪魔の形式で あり,あなたを煉功させない目的に達した。あなたは煉功し,あなたは道を得るが,あな たの借りたそんなに多くのものをあなたは返さないのか?それは承知せず,それはあなた に煉らせないのだ。しかしこれも一つの層次にある反映であり,暫くの時間が経ってから こういう現象の存在は許されない,つまりこの債務を磨いて過ぎてから,それが再び邪魔 に来ることを許さない。我々法輪大法を修煉するなら割合に速く修めるし,層次の突破も 割合に速い。

 又一種の魔が邪魔する形式がある。皆の知っているように我々は煉功して天目を開くこ とができる,ある人は天目が開いてから家で煉功して,何らかの怖い光景や、恐ろしい顔 が見える。ある者は髪を振り乱し,ある者はあなたと闘おうとし,ひいては色々な動作を して,非常に怖い。ある時煉功すると窓の外に伏せているのは全てその者であると見え, なかなか恐ろしい。何故この状況が出現するのか?これは全て魔の邪魔形式である。しか し我々法輪大法のこの一門には,この事が極めて少ない,百分の一だろう,多数はこの状 況に会えない。それは我々の煉功に何の益も無いから,それがこの形を取ってあなたに邪 魔することを許さない。一般の功法の修煉の中では,この事が一つの最も普遍の現象であ り,そして続く時間がかなり長い。ある人はこれで煉功ができなくなり,酷くびっくりし たからだ。夜に煉功すれば皆静かな環境を選ぶ,ふっと目の前に一人の人が立っており, 人でもないし鬼でもない,怖くて煉ることを止めた。我々法輪大法の中に,一般的にこの 現象が無いが,極めての個別の者はやはりおるのだ,ある人は状況が極めて特別なのだ。

 又一種は内外兼修功法を煉るもので,彼は武術も煉るし内修もする,この様な功法は道 家に割合に多く見られる。人は一旦この功法を学んだら,往々にこの様な魔に会う。一般 の功法なら会えないが,内外兼修の功法、武術を煉る功法だけにあり,つまり彼を探して 武術を競う人がいる。世界上に大勢の修道の人がおり,多くの者は武術を煉るもので,内 外兼修のものである。武術を煉る人は,彼も功が長じることができる。何故だろうか?彼 が他の心、名、利といった心を除去したなら,彼も功が長じる。しかし彼の争闘の心がな かなか除去されず,除去は割合に遅いので,彼はこの事をしがちであり,一定の層次にや はり出現する。座禅の時ぼんやりとする内に彼は誰かが煉功しているのを知っている,す ると元神が体を離れてその人を捜して武芸を比べ,誰が武芸の技が高いかを見たいため, この争闘が出現した。別の空間にもこの状況が出現する,ある者は彼を捜して争闘し合い 、争い,戦って来ないなら,真に彼を殺すから,互いに戦っており,闘い来たり闘い去る 。寝ると彼を捜して武芸を比べて闘う人が来るので,一夜も休めないようにやられた。実 はこの時こそ彼の争闘の心を除去するのだ,彼のこの争闘の心は除去しなければ,彼はい つもこの様で,長く続き,数年延ばしてもこの層次を出得ない。この人も功を煉り得ない ようにし,この物質身体も堪忍できず,精力があまりにも大いに消耗した,うまくやれな いと不具になるかも知れない。だから内外兼修の功法の中でこの状況に会う筈で,そして 非常に普遍である。我々の内修功法の中にこの状況が無く,彼が出現するのを許さない。 私が先程言ったこの幾つかの形式は皆普遍的に存在するものである。

 又一種の魔の邪魔形式があり,誰でも出会える事であり,我々のこの一法門でも誰でも 出会えることであり,色魔に逢うことだ。このものは非常に酷い。常人社会にこの夫婦の 生活があるので,人類に後代を繁衍させることができる。人類社会はこの様に発展して来 たのだ,人類社会の中には情が存在するから,この事情は常人にとって当然の事である。 人に情があるので,怒りは情で,喜びは情で,愛は情で,恨みも情で,したいことは情で ,したくないことも情で,誰が良い誰が良くないも,何かがやるのが好き何かがやるのが 嫌いも,一切は皆情で,常人は情の為に生きている。それでは一人の煉功人,一人の超常 の人として,この理で評定してはならず,このことを突破すべきである。だから情から派 生した執着心が沢山ある,我々はそれを淡泊に見るべきで,最後には完全に放下できるよ うにする。欲と色そのものは皆人の執着心に属し,これらのものは全て除去すべきである 。

 我々のこの一法門では,常人の中で修煉するこの一部分で,あなたを和尚や、尼僧にさ せることではなく,我々の若い人はまだ家庭を組織させる必要がある。では如何にこの問 題に対処するのか?私が言ったように,我々のこの一法門は人心を真っすぐ指すのであり ,物質利益からあなたに真に何かを失わせることではない。全く反対のことで,常人のこ の物質利益の中であなたの心性を錬磨し,真に向上したのはあなたの心性である。あなた のこの心が放下できれば,あなたは何もかも放下できる,物質利益の上であなたに放下さ せれば,あなたは勿論放下できる。あなたの心が放下できなけば,あなたは何も放下でき ない,だから真に修煉する目的はその心を修めるのである。廟の中での修煉は強制的にあ なたにこれらのものを失わせることも,あなたにこの心を除去させる為である,彼はあな たを強制し,完全にそれを杜絶させ,それを思わせない,彼はこの方法である。我々はこ のように歩むことを要求せず,我々は物質利益の前で如何にそれを淡泊に見るかをあなた に要求するから,我々のこの一門で修め出したのは最もしっかりして着実なのだ。あなた を和尚や、尼僧にならせることではない。我々は常人の中で修煉するから,将来我々の功 法は益々広く伝え,若し人々は皆和尚でない和尚になり,法輪大法を煉る一人一人は皆こ の様になったら,これはいけない。我々の煉功中は皆さんに要求しているが,あなたは煉 功するが,あなたの配偶者は煉功しないかも知れない,煉功の為に二人が離婚するように してはいけない。つまり我々はこの事を淡泊に見て,あなたは常人のようにそれをそんな に重く見てはいけない。特に現在の社会に於いて性開放など,これらのポルノのものは人 に影響している。一部の人はそれをかなり重く見ているが,我々は煉功人として,それを かなり淡泊に見るべきである。

 高層次上で見れば,常人は社会に於いてまるで泥をこね回しているようで,汚いと思わ ず,地面で泥をこね回して遊んでいる。我々は言う,あなたはこの事の為に家庭の仲を悪 くしてはいけない,だからあなたの現有のこの段階で,あなたはそれを淡泊に見て,正常 な仲睦まじい夫婦生活を保持すれば良い,将来一定の層次になるとその層次にある状態が あるはずで,現在はこうであるが,我々はこの様にすれば良いとあなたに要求する。勿論 現在の社会のその状態のようではならず,それは大変なことだろう!

 この中にはもう一つの問題がある,皆さんが知っているように,我々煉功人の身体に能 量があるのだ。我々今八、九十パーセントの人はこの班から下りてから,病気が治ったば かりでなく,功も出るので,あなたの身体にかなり強大な能量を持っている。あなたに持 っている功とあなたの心性とは正比例にならない。あなたは今暫くの間功が高い,さっと あなたを持ち上げた,今あなたの心性を高めている。段々とあなたがついて来るはずで, 暫くの間にあなたがついて来ると保証する,だから我々は超前にしてこの事をやったが, つまりあなたは一定の能量を持っているのだ。正法で修煉し出した能量は純正慈悲のもの だから,皆さんはここに座って一種の祥和慈悲の場を感じられる。私は煉功してこのよう に修煉して来た為,私はこのものを持っているのだ。皆さんがここに座って非常に睦まじ いと感じて,人の思想の中に邪念が無く,煙草を吸うのも思い出せない。将来あなたも我 々大法の要求によりやれば,あなたの将来修煉し出した功もこのようなものなのだ。あな たの功力が不断に増長するにつれて,あなたの身体に持っているその功の放射能量も相当 強くなる。それほど強くないとしても,一般の人は,あなたのその場の範囲の内にいると ,或いはあなたが家にいても,他人を制約できる。家族の人は皆あなたに制約されるかも 知れない。何故だろうか?あなたは念を動かす必要もなく,この場は純正祥和で、慈悲で ,正念の場であるから,人は悪い事を考えがちではなく,良くない事をしがちではない, このような作用をすることができる。 

 あの日私は「佛光普照,礼儀圓明」のことを言ったが,つまり我々の身体から放射した 能量が一切の不正確な状態を正すことができる。それでこの場の作用の下で,あなたはこ れらの事を考えない時,無形の中にあなたの配偶者を制約できる。あなたは念を動かさず ,念を動かすこともしないから,彼も思い出せない。しかし絶対のことではなく,今の環 境では,テレビを付けて見ると,何でもあるようで,人の欲望を引き起こしやすい。しか し一般の情況では,あなたはこの様な一種の制約作用をすることができる。将来高層次上 で修煉する際,私が教えてやらなくとも,あなた自分も如何にするか分かるはずだ,その 時になると別の状態があるのだ,睦まじい生活を保持する。だからこれらの事をあなたは 余りにも重く見ない方が良い,余程心配すれば執着にも属する。夫婦の間には色の問題が 無いが,欲望があり,あなたはそれを淡泊に見て,心理平衡を取れば良いのだ。

 それではどんな色魔に会うのか?若しあなたの定力が足りなければ,夢の中に現れる, あなたが寝ているところ或いは打坐しているところに,突然に出現する:あなたが男性な ら美女が出現する;あなたが女性ならあなたの心の中に愛慕しているそのような男子が出 現する,とかろが彼は真っ裸なのだ。あなたが念を働かせると,直ちに漏れ,事実になる かも知れない。皆さん考えてください,我々は煉功して,精血の気は命を修めるのに用い るもので,あなたは何時もこの様に漏らしてはいけないのだ。同時にあなたの色欲という 関を越えていないし,それは行けるか?だからこの問題について私が皆さんに言っておく が,誰でも出会う,必ず出会う。私が法を説く時,私はかなり強い能量を持ってあなたの 脳の中に打ち込んでいる。あなたは出掛けて私の言った事が具体的に何かを思い出せない かも知れないが,真に問題にぶつかった時に,私の言った話を思い出すはずだ。あなたは 自分を煉功人とさえすれば,あなたはその瞬間に思い出せ,自分を制約でき,それでこの 関をあなたは越えられる。若し一回目の関を越えられないなら,二回目の関はかなり守り にくい。しかしこの様な事もあり,一回目は越えられなかったから,目覚めてからがっか りして堪らなかったが,あなたのこの心理、この状態も,あなたの思想の中の印象を深め ることができ,また問題にぶつかったら,あなたは把握でき,越えられる。若しある人は 越えられなかったが,意にも介しないなら,以後はもっと守りにくい,必ずそうである。

 この形式には魔の邪魔があり,師父が指した物を化かして演化してあなたに試練するこ ともあり,二つの形式ともある,一人一人が皆この関を越えなければならないからだ。我 々は常人から修煉を始め,歩んだ第一歩がこの関であり,誰でも出会うはずだ。私は皆さ んに一例を挙げよう,武漢で班を行った時この様な一人の学員がいて,三十歳の男性若者 だった。私がこの一課を講じたばかりの後,彼は家に帰って打坐すると,間もなく入定し た,入定してから,突然こっちから阿弥陀佛が出現し,あっちから老子が出現したことが 見えた。これは彼が体得文の中に書いた事である。出現してから,彼を見て黙って,それ から隠れた。又観音菩薩が出現し,手に一つの花瓶を持っており,この花瓶の中から一つ の白い煙りが飛び出て来た。彼はそこで打坐して,随分はっきりと見て,嬉しく思った。 あっと言う間に数人の美女と化した,美女は即ちあの飛天である,それはなんと美しいだ ろう。彼に踊りを見せ,踊りの姿は奇麗で堪らなかった!彼は,私がここで煉功している から,観音菩薩が僕に褒美を下さり,数人の美女と化して見せ,飛天が踊りを見せてくれ ると思った。彼が嬉しく思っているところ,さっとこれらの美女が真っ裸になって,様々 な動作をして,首に手を載せたり腰を抱いて来た。我々の学員は心性の向上が速いものだ から,当時この若者は直ちに警戒心を引き起こし,彼がまず思いついたのは:私は一般の 人ではない,私は煉功人だ,君達は私にこの様な事をやめなさい,私は法輪大法を修める ものだ。この念が出ると,サーッと何も無くなった,本来も変化して来たものだから。そ れから阿弥陀佛と老子が再び現れて来た。老子が若者を指さして,阿弥陀佛に向かってに こにこしながら:「孺子教うべし」と言った。それはこの子は行ける,教えることができ ると言うことだ。

 歴史上或いは高層空間の中に於いて,人が修められるかどうかを見るには,人の欲望、 色というものを見るのは主としている,だから我々は真にこれらのものを淡泊に見なけれ ばならない。但し我々は常人の中で修煉するから,あなたにそれを完全に杜絶させること ではないが,少なくとも現段階では,あなたはそれを淡泊に見るべきで,まだ以前のよう にしていけない。一人の煉功人としてはこの様にすべきである。凡そ煉功の中にあの邪魔 や,この邪魔が出たら,あなた自身は原因を捜すべきで,あなたには何かまだ放下してい ないものがあるか。