開光
工場で造り上げた佛像はただ一つの芸術品だけである。開光というのは佛の一人の法身 が佛像の上に来てもらい,それから,佛像を常人の中の有形な身体として供えることであ る。煉功人は敬慕の心を持てば,修煉の時,佛像の上にいる法身は彼の為に法を護持し, 彼を看護し,彼を保護してやる,これは開光の真正の目的である。正式の開光式に正念を 出し,或いはかなり高い層次のある大覚者,或いはかなり高い層次上で修煉するこういう 力を持っている人こそこの事情をやれる。
廟の中では佛像は開光すべきであると言われている,開光を経ていない佛像には彼は効 き目がないと言う。現在の廟の和尚では,真正のそれらの大法師は,皆世にいなくなった 。「文化大革命」以後,それらの小坊主は一部が真伝を得ていないが,今は住職になり, 多くのものが伝わらなくなった。彼に開光は何の為かと聞いたら,彼は,開光したら,佛 像は効き目があると言った。具体的にどのような効き目があるか,彼もはっきり答えられ ない。だから彼はただ儀式を行い,佛像の中に小経文を入れ,それからそれに紙を貼り, それに向かって読経する,彼はこれが開光だと言う。しかし開光できたのかできなかった のか?それは彼がどのように読経するかに決まっている。釈迦牟尼は正念を説く,一心不 乱に読経し,真に彼の修めるその一法門の世界に震動を生じさせて初めて,覚者が来ても らうことができる。その覚者の法身が一人上がって初めて,開光の目的に達することがで きる。
ある和尚はそこで読経しているが,心の中では,後開光が終わったら幾らくれるかなと 思っている。或いは読経しながら,某々は私にこんなに悪いと思っていた。彼もそこで心 を探り合って暗闘している,現在は末法時期で,この現象を認めなければそれもいけない ,我々はここで佛教を批判することではなく,末法時期に或る寺院は清浄ではないのだ。 彼が頭の中でこれらの事を考える時,こんなに良くない念を出して,その覚者が来られる か?根本的に開光の目的に達することができない。しかし絶対なことでもなく,個別的に 良い寺院と道観もある。
私は×市で一人の和尚を見たが,その手は真っ黒だった。経文を佛像の中に押し込み, 貼り付けて,口でちょっと呟いて開光が終わった。もう一つの佛像を取り出して,また呟 いていた,一つ開光して40元かかる。現在和尚はこれをも商品として,佛像開光の金を 儲ける。私が見たら開光していない,根本に開光できないのだ,現在の和尚は敢えてこの 様なこ事をやっている。私は他にどんな事を見ただろうか?廟の中の人だが,居士みたい な人が,佛像に開光をすると言って,彼は鏡を持って太陽に向かい,その光を佛像の身体 に当てたら,彼は開光したと言う。こんなにおかしい程度にも達した!今日佛教がこの一 歩まで発展して来たのだが,それは一つのかなり普遍的な現象である。
南京で一基の銅の大佛像が造られ,香港の大嶼山に建ち上がった,非常に大きな佛像で ある。全世界から大勢の和尚が来て佛像の為に開光をする,その中の一人の和尚一枚の鏡 を持って太陽に向かい,光を佛像の顔に当てて、開光だと言う。そんなに大きな盛会で, そんなに厳かな場所でこんな事をしたのでは,私は本当に悲しいと思う。さすがに,釈迦 牟尼は,末法時期になって,和尚は自分自身さえも度し難いのに,人を度することは尚更 難しいと言った。その上多くの和尚は自分の角度に立って佛経を解釈する,西王母経なん かも廟の中に入って,佛教経典ではないものまで廟の中に入って,目茶苦茶になって,今 は大変混乱している。勿論真に修煉する和尚はまだおり,やはりなかなか良いものだ。開 光とは実際に覚者の法身を呼んで来て佛像の上に上がってもらうと,開光となった。
それではこの佛像は若し開光できないなら供えてはいけない,供えるとすれば非常に重 大な結果をもたらす。どのような重大な結果なのか?現在我々の人体科学を研究する者は ,我々人間の意念,人間の大脳思惟が一種の物質を生じることができると発見した。我々 はかなり高い層次の中でそれが確かに一種の物質であるということを見たが,この物質は 我々が現在研究して発見したような一種の脳電波という形式ではなく,一種の完備な大脳 形式である。日頃常人が問題を考える時大脳形態のものを出したが,それは能量が無いの で,出した時間が長くない内に消えうせるが,煉功人の能量の保持時間はずっと長い。こ の佛像は工場で造り上げられるとそれに既に思想があったと言うことではなく,無いので ある。あるものは開光を経ていず,彼は廟に持って行っても開光の目的に達していない。 若しどの偽気功師や、邪道の人に開光してもらえば,それは更に危なくなり,狐や、鼬が 憑いてしまうことになる。
では若し開光をしていない佛像であれば,あなたが行って参拝すれば,極めて危ない。 どの程度まで危ないのか?私が言うように人類が今日まで発展して来ていながら,一切の ものは敗滅しつつあり,全社会,全宇宙の全てのことも相い続いて敗滅が発生しており, 我々の常人の中の一切の事情は皆自分自身が招いたのだ。正法を求め,正道を歩みたいこ とでも難しく,方々面々からも邪魔がある。佛を求めたいが,誰が佛であるか?求めたい ことも難しい。信じなければ私が言って聞かせる:最初の人は若し開光していない佛像に 向かって参拝すると大変なことになる。今佛を拝むものには正果を得る為に佛を求めるこ とを心で考えている人が何人いるか?この様な人は大変少ない。大多数の人が佛を拝む目 的は何だろう?災いを消し、難を逃れ、金を儲けるなど,それを求める。これは佛教経典 の中のものなのか?根っからこの様なものが無いのだ。
佛を拝む人は若し金を求めるものなら,佛像に向かって拝むと,或いは観音菩薩像,或 いは如来佛像に,私がお金を儲けるように助けてください。と言うと,大変なことになり ,一つの完備した意念が形成できた。彼は佛像に向かって出したのだから,さっとこの佛 像の上に上がった。別の空間にあるこの体は,大きくもなれるし小さくもなれるから,こ の体に上がると,この佛像は一つの大脳を持つようになって,思想を持つが,身体を持っ ていない。他の人も参拝に行き,参拝しに参拝すれば,それに一定の能量を与える。特に 煉功の人では尚更危ない,参拝すれば次第にそれに能量を与え,それはそれで一つの有形 の身体を形成する,しかしこの有形の身体は他の空間で形成されたのである。形成してか らそれは別の空間にあり,それは宇宙の中の理を少しばかり解れるので,それは人の為に 少しの事をすることができる,こうしてそれも少し功が長じられる,処がそれは人を助け るのに条件があり代価があるのである。別の空間ではそれが自由に行動できるから,常人 を制御することは思いのままにできる。この有形の身体は佛像の形象と全く同じで,する と偽観音菩薩、偽如来佛を拝み出して来た,人が拝み出して来たもので,佛像と全く同じ ように見え,佛の形象である。偽佛、偽菩薩の思想は極めて悪く,金を求めるのである。 それが別の空間に生じられる,それは思想があって,それは僅かの理が分かる,それは大 した悪い事を敢えてしないが,それは小さい悪い事を敢えてする。ある時にも人を助けて やり,もし人を助けなければ全く邪のものだ,それでそれを殺すのだ。どのようにして助 けるか?あの人は,佛様私を助けてください,家に誰かが病気があったと言うと,良し, 助けてやろう。それはあなたに功徳箱の中に金を入れさせる,それの思想は金が欲しいの だから。その功徳箱の中に金を多く入れたら,あなたの病気に速く治おるようにさせる。 それは一定の能量があるから,別の空間ではそれは一人の常人を左右できる。特に功のあ る人が参拝すれば更に危ない。煉功人は何を求めのるか?金を求めるか。皆さん考えて見 なさい,煉功の人は金なんて求める?肉親の為に災いや病気を消すことを求めるのも肉親 に対する執着である。他人の運命を左右しようと思うのか,人はそれぞれ自分の運命があ るものだ!あなたはそれに拝んで,私が金を儲けるように助けてくださいと呟くと,良し ,それはあなたに助けてやる,それはあなたが金を多く求め,どしどし求めることを切望 して,それはあなたのものを多く取り,等価で交換する。他人がそれの為に功徳箱の中に 入れた金は幾らでもあるから,それはあなたに得させる。どのように得るのか?出掛けに 財布を拾うとか,勤め先で奨励金を多く給与するとか,所詮何とかしてあなたに金を得さ せる。それは無条件にあなたを助けてやることがないだろう?失わなければ得られず,あ なたの功を取る,それは功が足りないから,或いはあなたの煉り出した丹などのものを取 る,それがこれを欲しがる。
これらの偽佛はある時かなり危ない。我々の多くの天目が開いた人は自分が佛を見たと 思う。ある人が言ったが,今日廟に一群れの佛が来た,この佛の名前は何で,一群れを連 れて来た。昨日来た一群れはどんな様子だったとか,今日来た一群れはどのような様子だ とか,間もなく行ったとか,また一群れが来たとかと言う。何だろうか?この一類のもの に属するのである。それは真の佛ではなく,それは偽りであり,この一類のものは相当多 い。
若し廟の中にこの事が出現したら,もっと危ない。和尚はそれに拝めば,それでそれは 和尚を管掌する:お前が俺に拝むのか?お前がはっきり分かりながら俺に拝むのだ!良し ,お前が修煉しようとするじゃないか?俺がお前を管掌し,俺がお前にどのように修める か教える。それはあなたの為に手配してやる,あなたが修成したら,どこへ修めて行くの か?それの手配で修めたのだから,上のどの法門でも要らない。それが手配したのだから ,あなたは将来それに管掌される。あなたがそれで無駄修めになったじゃないか?私に言 わせれば人類は現在正果を修めて得ようとすることはかなり難しい。こういう現象は相当 普遍的である,我々の多くの人は名山大川で見た佛光は,大多数がこの類のもので,それ は能量があり,顕現できるのだ。真の大覚者は軽々しく現しはしない。
過去「地上佛」、「地上道」と呼ばれたものが,割合少なかったが,今特別に多い。そ れが悪事をする時,上もそれを殺そうとする,殺そうとするとそれが佛像の上に逃げてし まう。常人のこの理を,一般の大覚者は軽々しく破りはしなく,高ければ高いほど覚者は 常人の理を破壊しなく,少しでも破りはしない。突然雷が佛像を壊すことは有り得ないだ ろう,彼はこの様な事をしない,だからそれが佛像の上に逃げて行ったらそのままにして 置く。それを殺そうとするとそれが知っているから,それは逃げる。だからあなたが見た 観音菩薩は観音菩薩であるか?あなたが見た佛は佛であるか?言い難いのだ。
我々の多くの人はこういう一つの問題を連想するだろう:我々の家の佛像はどうすれば 良いか?沢山の人は私のことを思ったかも知れない。学員の修煉を助ける為に,私はこの ようなやり方を教える:あなたは私の本(本の中に私の写真があるから)或いは私の写真 を持っていて,あなたは手で佛像を捧げて,大蓮花の手印をして,それから私本人に願う ように,先生開光をお願いします。半分間で結構である。皆さんに教えたいのは,我々の 修煉の人だけに限られ,親戚友人の為に開光したら効き目が無く,我々は修煉の人だけに やる。ある人は先生の写真を親戚友人の家に置いて邪を避けると言ったが,私は常人の邪 を避ける為に来たのではない。これは先生に対して最大の不敬である。
「地上佛」、「地上道」の問題を話したが。もう一つの情況があるが,中国古代に多く の人は深山原始林の中で修煉していた。何故現在ではいないのか?実はいないのではなく ,常人に知らせないのであり,少しでも少なくなってはいない,これらの人は皆功能があ る。ここ数年これらの人はいなくなったのではなく,これらの人は皆いるのだ。今でも世 界に数千人がおり,我が国では割合多い。特にそれらの名山大川には皆おり,ある高い山 の中にもいる。彼は功能で洞窟を塞いでいるから,あなたは彼の存在を見つけることがで きない。彼は修煉が割合緩慢で,彼の技が割合拙く,彼は修煉の中心を掴めない。我々は 人の心を真っすぐ指し,我々宇宙の最高特性により修煉し,宇宙のその形式により修煉す るから,勿論功の長じるのが速い。修煉の法門は金字塔の形のようで,真ん中だけが大道 である。それらの縁辺小道は,修煉しても心性が必ずしも高くないので,高く修めずに開 功するかも知れないが,真に修煉するあの大道とは随分掛け離れている。
彼も伝承して弟子を取るが,彼のこの一門はこれだけの高さまでしか修められないから ,彼の心性もこれくらい高い,彼の伝えた徒弟も皆この高さへ修める。縁辺の世間小道で あるほど言い方が多く,修持方法も複雑で,中心を掴んで修めることができない。人の修 煉は主として心性を修めるのだ,彼はまだこの一点が分からず,彼は苦しみを受ければ修 煉できると思っている。だから彼は一つの長い時間を経て,数百年、千年を修めて,彼に は僅かばかりの功が長じて来たのだ。実際は彼は苦しみに耐えることによって修めて出来 たのではない,どのように修めて出来たのか?人と同じように,若い時は執着心が多かっ た;年寄りになる時,歳月の流れに従って,前途に希望が無くなり,この心も自然に放棄 し,磨かれて無くなる,この種の小道もこの方法である。彼は座禅や、定力や、苦しみに よって,上へ修める時,彼は功を長じさせることもできると見つけた。ところが彼は彼の その常人の執着心が長くて苦しい歳月の中で段々磨かれて無くなり,段々その心を除去し たので功が長じて来たことを知っていない。
我々は即応性があるのだ,真にその心を指摘し,その心を除去する,それで修めるのは 非常に速い。私は幾つかの所に行って,よくこれらの人と会ったが,長年修めて来た。彼 も:我々がここにいることを知っている人はいない,あなたのその事に我々が構わないし ,撹乱もしないと言った。これは割に良い方に属するのだ。
良くない者もいる,良くない者を我々も処理する。一例を挙げよう,私が初めて貴州へ 功を伝えに行った時,班を行う最中,一人の人がやって来て,彼の師の師が私に会いたい と,彼の師の師が某々で,長い年月を修めて来たと言っていた。私は見るとこの人は陰気 を持っていて,非常に良くなく,顔色が青ざめている。私は彼に会いに行かない,暇が無 いからと言って,断った。その結果彼の親父はひどく不愉快になって,私を撹乱し始め, 毎日も私を撹乱した。私は他人と闘うなんてしたくない,私も彼と闘うには及ばない。彼 が良くないものをもたらしたら私が整理し,整理が終わったら,私は私の功を伝え続ける 。
過去の明朝時代に一人の修道の人がおり,修道している時もう蛇に取り憑かれていた, その後この修道の人は修成せずに死んだ,この蛇は修道人の身体を占有して,人の形に修 めることができた。その人の師の師はその蛇が修成した人の形である。彼は本性が改まら ないので,又大蛇と化けて私を撹乱した。私はこれではあまりにも話にならないと思った ,私はするとそれを手に掴んで,「化功」と言う非常に強大な一種の功で,それの下半身 を溶けて,水と化させたが,それの上半身が逃げてしまった。
ある日の事,我々の貴州輔導站の站長を彼の孫弟子は尋ねて,彼の師の師が彼女に会い たいと言った。站長が行って,洞窟に入って見たら中は真っ暗で何も見えず,ただ一つの 影がそこに座っており,眼から緑光を放っていて,眼を開けると洞窟は明るくなり,眼を 閉じると洞窟は暗くなったことを見た。彼は方言でこう言った:李洪志がまた来る,今度 は我々誰もあんな事はしないよ,俺が悪かった,李洪志は人を度する為に来たのだから。 孫弟子は彼に,師の師,立ってよ,足はどうかなりましたか?と尋ねると,彼は,立ち上 がれない,足は怪我したと答えた。どのように怪我したのかと彼に聞くと,彼は彼の撹乱 した経過を語っていた。北京93年東方健康博覧会では彼はまた私を撹乱して来た。彼は 悪事ばかり働き,私の大法を伝えることを破壊するので,私は彼を徹底的に滅ぼした。滅 ぼしてから,彼の姉弟子、妹弟子、兄弟子、弟弟子が何かを仕掛けようとした。当時私が 幾つかの言葉を言ったら,彼らは驚愕して,ひどく吃驚したので,誰も敢えて仕掛けしな かったし,その事情も分かるようになった。彼らの中で何人かはまだ完全に常人であり, 長いこと修めたけど。これは開功問題を述べる為に幾つかの例を挙げた。