法身
佛像の上に何故一つの場があるのか?多くの人が解釈できない,ある人は,佛像の上に 場があるのは和尚が佛像に向かって読経するから生じたのであり,つまり和尚が向かって 修煉して生じた場であると言った。和尚が修煉しても良かろう,誰かが修煉しても良かろ う,しかしこの能量は散らして射るもので,指向性が無く,佛堂の全ての地上や、天井や 、壁に均等な場があるべきである。ところが何故佛像の上の場だけがそんなに強いのか? 特に深山の中,或いはどこかの山の洞窟の中,或いは岩石の上に彫刻した佛像には,往々 に一つの場の存在がある。何故この場が出現するのか?ある人はこういうふうに解釈し, ああいうふうに解釈したが,どのように解釈しても通じない。実は佛像の上にその場があ るのは佛像の上に一人の覚者の法身がいるからである。その覚者の法身がそこにいるので ,彼には能量があるわけだ。
釈迦牟尼でも,観音菩薩でも,若し歴史上に確かにその人がいたとすれば,皆さん考え て見なさい,彼が修煉した時,彼も煉功人であるじゃないか?人が出世間法以外の相当高 い一定の層次に修煉してから,法身が生まれる。法身は人の丹田の部位に生まれたもので ,法と功で構成したもので,別の空間に現れて来たものである。法身は彼本人のかなり大 きな威力を具備しているが,法身の意識,法身の思想は主体の制御を受けている。しかし 法身自身も一つの完備な、独立な、実々在々としての個体の生命であるから,又自分で独 立に如何なる事をもすることができる。法身がやる事は人の主意識がやりたい事と同じで ,全く同じである。その事を本人にやらせてもそのようにやるし,法身にやらせてもその ようにやる,これが我々の言った法身である。私は何かやりたいなら,例えば,真に修煉 する弟子に身体を調整することは,全部私の法身がやる。法身は常人のその身体を持たず ,他の空間に体現しているものである。その生命体も固定されて変わらないことではなく ,彼は大きくなったり小さくなったりすることができる。ある時は彼がかなり大きくなり ,大きくて法身の頭までも全部見えなくなるほどになる;ある時はかなり小さくなり,小 さくて細胞よりも小さいほどになる。