男女双修

 修煉界に於いてこの様な一種の修煉方法があり,男女双修と言う。皆さんは見たことが あるかも知れないがチベット密宗修煉方法の中で,彫刻した佛像或いは画像の中から,一 つの男体が一つの女体を抱いて修煉しているのを見た。男体はある時表現形式は佛で,一 人の真っ裸の女を抱いている;佛の変化身もあり,牛頭馬面の金剛像に変わって,一つの 女体を抱いていて,それも真っ裸である。何故こうなるのだろうか?我々はまず皆さんに この問題を説明しておく。我々地球上に於いて,我々中国は儒家の影響を受けただけでな く,我々の全人類が,幾世紀前の古代に,人類の道徳観念は大体同じくらいであった。だ からこの修煉方法は実際は我々のこの地球から生まれるのではなく,それは別の星球から 伝わって来たものだが,この方法は確かに修煉できるものだ。この修煉方法は当時我々中 国に伝わった時,それは男女双修と幾らかの秘煉の部分があって,中国人に受け入れられ ないから,唐代会昌年間に漢地の皇帝に取り除かれた。それが漢地で流伝するのを許さず ,その時唐密と呼ばれた。しかしそれはチベットのその特別な環境下,特別な地区で,そ れが流伝して来た。何故この様に修煉するのか?男女双修の目的は陰を採って陽を補い, 陽を採って陰を補い,互い補い互い修めて,一種の陰陽平衡の目的に達するのである。

 皆さんが知っているように,佛家でも良し,道家でも良し,特に道家の陰陽学説が言っ たように,人体に自ずから陰陽存在がある。人体に陰陽の存在があるから,人体から各種 の功能、元嬰、嬰孩、法身など生命体を修煉し出すことができる。陰陽の存在があるから ,多くの生命体を修煉し出すことができる。男身でも女身でも,皆同じで,丹田のその田 で全部生成できると,この言い方はなかなか道理に合う。道家は往々に上半身を陽と見な し,下半身を陰と見なす;後背を陽と見なし,前身を陰と見なすのもある;また人の身体 の左側を陽と見なし,右側を陰と見なすのもある。我々中国では男は左女は右という言い 方があるが,それもここから出たのであり,非常に道理に合う。人身に自ずから陰陽の存 在があるから,陰陽の相互作用の下で,自身でも陰陽平衡に達することができるし,多く の生命体を生むこともできるようになる。

 これで一つの問題を証明された,我々は男女双修の修煉方法を採用しなくても,同様に かなり高い層次に修めて行くことができる。若し男女双修の方法を採用して修煉すれば, 若し良く掌握できなければ,魔に陥り,邪法になる。かなり高い層次上に於いて密宗では 男女双修を採用したければ,この和尚、ラマはかなり高い層次に修めなければならない。 その時彼の師父は彼を連れてこの種の修煉を行わせる,彼の心性がかなり高いから,彼は 把握できて,邪のものには流れない。心性のかなり低い人は絶対に採用してはならない, 採用したら邪法に入るのだ,絶対間違いない。心性に限りがあり,常人境界の中で欲望の 心は除去せず,色欲心は除去せず,心性の尺度はそこまでだから,絶対に用いると邪のも のとなるのだ。だから我々が言ったように,勝手に低い層次で伝えれば,それは即ち邪法 を伝えるのだ。

 ここ数年来男女双修を伝える気功師も少なくない。おかしな事はどこにあるのか?道家 にも男女双修の修煉方法が出現した,そして今出現したのではなく,唐代からもう始まっ たのだ。道家にはどうして男女双修が出現したのか?道家の太極学説によれば,身体は小 宇宙であり,自ずから陰陽がある。真の正伝大法は皆一つの久しく遠い年代を経て伝わっ て来たもので,随意に変え,随意に如何なるものを入れてもその一法門のものを乱し,そ れを修煉圓満の目的に達させることができない。だからその功法に男女双修のものが無け れば,ぜひ修めないようにしなさい,用いたら,偏差が出て,問題が起こる。特に我々法 輪大法という一法門には,男女双修が無く,これを講じもしない。この問題について,我 々はその様に見ているのだ。