第五講

法輪図形


 我々法輪大法の標記は法輪である。功能のある人は,この法輪が旋転しているのが見え る,我々のあの小さい法輪バッジも同じで,彼が旋転している。我々は宇宙の『真 善 忍 』特性に基づいて,我々の修煉を指導している。宇宙の「演化」原理に従って煉っている ので,我々のこの功は煉るものがかなり大きい。ある種の意義から言うと,この法輪図形 は宇宙の縮図である。佛家は十方世界を一つの宇宙の概念と見なす,四面八方は,八つの 方位で,ある人は彼の上下に一本の功柱が存在するのが見えるかも知れないから,上下を 加えれば,丁度十方世界となり,この宇宙を構成し,佛家の宇宙に対する概括を代表して いる。

 勿論この宇宙の中に数え切れない星系があり,我々の銀河系も含まれている。宇宙全体 が運動しており,全宇宙のあらゆる星系も運動している,だからこの図形の中の太極と小 さい卍の符号も旋転しており,法輪全体も旋転しており,真ん中の大きい卍の符号も旋転 している。ある意義から言うと,これは我々の銀河系を象徴し,同時に我々は佛家のもの であるから,中心は佛家の符号である,これは表面上から見るのだ。あらゆる不同の物質 はいずれも別の空間にある存在形式があり,別の空間の中に於いては一つの極めて豊富で 、極めて複雑な一つの演化過程と存在形式である。この法輪図形は宇宙の縮図であり,彼 は他の各空間にも彼の存在する形式、演化過程があるから,一つの世界だと私は言う。

 法輪は時針に従って旋転する時,自動的に宇宙中の能量を吸収できる;時針に逆らって 旋転する時,能量を出すことができる。内旋(時針に従うこと)は自己を度し,外旋(時 針に逆らうこと)は人を度するということは,我々のこの功法の特徴である。ある人は問 った:我々は佛家のでありながら,何故また太極があるのか?この太極は道家のではない か?我々の功は煉るものがとても大きいから,煉るものは宇宙全体であるのに等しい。そ れでは皆さん考えて見なさい,この宇宙の中に二大家,つまり佛、道の二大家があり,ど ちらか一家排除しても完備な宇宙を構成できず,完備な宇宙だとは言えない,だから我々 のには道家のものがあるのだ。ある人は言っていた:それでは道家だけではなく,まだ何 かキリスト教や、儒教や,別の教などあるのではないか。私が皆さんに教えてあげよう, 儒教は極めて高い層次上にまで修煉したら,それは道家に帰するのだ;西方の多くの宗教 は高層次上に修煉してから,それは佛家に帰するのであり,それは佛家の同じ体系に属す るのだ。この二つの大きな体系だけだ。

 何故太極図形にはまだ二つの「上赤下青」のがあり,まだ二つの「上赤下黒」のがある のか?我々の一般に知っている処では,太極が黒白二種の物質で構成されたのだと思う, 陰陽両気だから。それは一つのかなり浅い層次の中に立って認識しているのであり,違う 空間に違う空間の顕現がある。最高層次の中での顕現では,その色はこうであるのだ。我 々が一般に認めた道は即ち上赤下黒という色である。例を挙げて説明しよう,我々の一部 の人は天目が開いたら,目で見れば赤色であるが,別の一層だけ違う空間の中で見ればそ れは却って緑色だと発見した。あの黄金色は別の空間の中で見れば却って紫色だと発見し た,それはこの様な一つのコントラストがあり,違う空間の色も違う変化が発生した。上 赤下青の太極は先天大道に属し,奇門修煉の法門が含まれている。四面の小さい卍の符号 は佛家のもので,真ん中のと同じで,皆佛家のものである。この法輪の色は割合に鮮やか で,我々は彼を法輪大法の標記とすることにした。

 我々皆さんが天目を通じて見たあの法輪は必ずしもこの色ではなく,この底色は変わる が,図案は変わらない。私があなたに下してやった下腹部位にいる法輪が旋転している時 ,あなたの天目が見たのは赤いかも知れず,紫色かも知れず,緑色かも知れず,無色かも 知れない。赤橙黄緑青藍紫のように,彼の底色は絶えず色が変わっているから,あなたが 見たのは他の色であるかも知れないが,中の卍の符号、太極の色図案は変わらない。我々 はこの図案の底色が割合綺麗だと思うから,我々は彼を固定させておいた。功能のある人 はこの一層の空間を透過して沢山のものが見えるだろう。

 ある人は言った:この卍の符号はヒットラーのそのものみたいだ。皆さんに教えたいが ,この符号そのものは何も別に階級概念はないのだ。ある人は言う:この角がこっちに傾 けるならヒットラーのものになる。そうではなく,この両側とも旋転しているからだ。我 々人類社会で普遍的にこの図案を知ったのは2千5百年前に,釈迦牟尼の時代に彼を知っ たのだ。ヒットラーが第二次世界大戦にいた時から今まで只の数十年でしかない,彼はこ のものを盗用したのだ。しかしそれの色は我々のと違い,それは黒いもので,そしてそれ は先を上に向け,立てておいて,立てて使うのだ。この法輪についてこれだけ述べたが, 我々は彼の表面形式しか述べなかった。

 それではこの卍の符号は我々佛家に於いて何と見なされるのか?ある人は「吉祥如意」 だと言った,これは常人の解釈である。私が皆さんに教えてあげよう,卍の符号は佛の層 次の標識であり,佛の層次に達してこそ有り得る。菩薩、羅漢は持っていないが,大菩薩 、四大菩薩は皆持っている。我々はこれらの大菩薩は皆遥かに一般の佛の層次を超え,ひ いては如来よりも高いことを見た。如来の層次を超えた佛は数え切れないほど多い。如来 は卍の符号が一つしかなく,如来以上の層次に達すれば,卍の符号も多くなる。如来の一 倍を超えたのは卍の符号が2つあり,更に超過すれば3つ、4つ、5つあるが,多いのは 身体一杯である。頭上、肩の上、膝の上にも出現する;置けれない時,掌心、手指の腹、 土踏まず、足指の腹などの処にも出現する。層次が絶えず高くなるにつれて,卍の符号は 不断に増えて来る,だから卍の符号は佛の層次を代表するもので,佛の層次が高ければ高 いほど,卍の符号が多くなる。