玄関設位

 「玄関設位」は「玄関一竅」とも言う。《丹経》、《道藏》、《性命圭旨》の中からこ の様な名詞を調べられるかも知れない。ではそれはどういう事か?多くの気功師ははっき り言えない。一般の気功師が所在する層次では根本に見えず,彼が見るのも許されない。 修煉人はそれを見ようとすれば,「慧眼通」の上層以上に達してから初めて見え,一般の 気功師はこの層次に達することができないので,見えない。従来より修煉界は何が「玄関 」か?何処が「一竅」か?どの様に「設位」をするか?と探求している。あなたは《丹経 》、《道藏》、《性命圭旨》の中から見れば,彼は理論を巡って述べており,全然にあな たに実質的なものを言わない。述べに述べれば,あなたが分からなくなるようにし,はっ きり述べられない,実質的なものは常人に知らせてはいけないからである。

 その上に私が皆さんに教えるが,あなたは我々法輪大法の弟子なのだから,私があなた にこの様な話を教える:是非それらのでたらめな気功読本を見ないでください,以上の何 冊かの古書ではなく,現在人が書いた偽りの気功書であり,あなたは繙くだけでもしない ように。あなたの頭の中にちょっと一つの念頭が出て:なるほど,この話は道理があるな あ。とこの一念が閃くと,その中の憑依が上がって来る。多くのは憑依が人の名利心を指 揮し、制御して書いたのだ。偽りの気功書は多くてたまらなく,相当多い,多くの人は彼 は責任を負わない,一部の憑依は、めちゃくちゃのものを彼は何もかも書く。以上の何冊 かの古書或いは他の関係する古書でも一般には読まない方が良く,ここには「専一不乱」 という問題があるからだ。

 中国気功協会のある指導者は私にこの様な話を言ってくれて,私をも大変笑わせた。北 京にこういう一人の人がおり,彼はよく気功講座を聞きに行き,聞き来り聞き去って,時 間長く聞いている内に,彼は気功はこんなもんだと思った。皆同じ層次の中にあるから, 何れもこれらのものを講じる。彼はそれらの偽気功師と同じように,気功の含みはこれく らいだけだと思い込んだ!それではよし,彼も気功の本を書こうと思った。皆さん考えて ご覧,煉功しない人が気功書を書くなんて,現在気功書はあなたが彼のものをひょうせつ したり,彼があなたのものをひょうせつするものだ。彼は書き来り書き去って,玄関とい う処まで書くことになって筆が進まなくなった。玄関ということが誰が分かるか?本物の 気功師でも分かる者は何人もいない。彼は一人の偽気功師に聞いた。彼は偽りのものだと 知らない,本来彼も気功が分からないのだ。しかしこの偽気功師は人に問い詰められたら ,人は彼が偽物だと分かるだろう?だから彼は敢えて出鱈目に言う,「玄関一竅」は生殖 器の先にあると。聞いただけでおかしく思う。まずは笑わないで,この本は既に社会に出 ていた。つまり,我々の現在の気功書がこれ程おかしくなっているのだから,あなたはそ れを読んで何の役に立つか,何も役に立つことはなく,人を害するだけだ。

 「玄関設位」とは何か?人は世間法の修煉の中に於いて,中層以上まで修煉した時,つ まり世間法の高層次上で修煉する時,人には「元嬰」が出始める。元嬰は我々の言う「嬰 孩」とは別々のことだ。嬰孩はかなり小さく,ぴんぴんしていて,とても腕白だ。元嬰は 動けない,元神は彼を主宰せず,彼はそこに座って動かず,手は「印」を結んで,足を組 んで蓮花の上に座っている。元嬰は「丹田」の所に生まれ,極微視的な下で針先よりも小 さい時にもう彼を見ることができる。

 なお一つの問題を説明して置きたいが,本当の「丹田」は一つしかなく,下腹部にある 。会陰穴の上,人の身体の中の,下腹以下が,この田である。多くの功,多くの功能,多 くの術類のもの,法身、元嬰、嬰孩,沢山の生命体は,皆この田から生まれたのだ。

 以前に個別の修道の人は上丹田、中丹田、下丹田という説を唱えているが,私がそれは 間違いだと言う。またある者は彼の師父が数代に亙って伝え,本にもこういうふうに書い てあると言っている。私が皆さんに教えておく,糟糠糟粕というものは古代にもあった, 長年伝わって来たが,それは必ずしも正しいとは言えない。世間小道もずっと常人の中で 伝わっているが,彼は修められず,何にもならない。彼はそれを上丹田、中丹田、下丹田 と言っているが,彼の意味は丹を生むことができる所は丹田であるということだ。これは 冗談ではないか?人の意念は一点に集中して,時間が経つと,「能量団」を生じ,丹を結 ぶことができる。信じなければ,あなたの意念をいつも腕に置いて,いつもそのままに守 っていれば,時間が長くなると,それは丹を結ぶ。だからある人はこの状況を見て,丹田 の無い所は無いと言っている,聞くと尚更おかしいと思う,彼の認識は丹を結べば丹田だ ということである。実はそれは丹であるが田ではない,あなたは「丹」の無い所は無く, あるいは上丹、中丹、下丹と言えば,この様に言えば構わない。真に無数の法を生むこと ができるその田はただ一つしかなく,取りも直さず下腹部のその田である。だから上丹田 、中丹田、下丹田の言い方は間違っている。人の意念をどこかの所に守って,時間が長く なると,丹を結ぶはずだ。

 元嬰が下腹部という丹田から生まれ,段々と益々大きくなる。ピンポン球程の大きさに なった時,身体全体の輪郭がはっきりと見え,鼻、目は全部生成された。ピンポン球程の 大きさになったと同時に,彼の身体のそばに又一つの小さな丸い泡が生じて来た。生成さ れてから元嬰が成長するにつれて,それも従って成長する。元嬰が4寸くらいの高さにな った時,一枚の蓮の花びらが出現する。5〜6寸くらいの高さになった時,蓮の花びらが 基本的に出来て,一重の蓮花が出現して,金色に輝く元嬰が金色の蓮花盤に座っていて, なかなか美しい。それが金剛不壊之体であり,佛家は佛体と言う;道家は元嬰と言う。 

我々のこの一法門はこの二種の身体とも修煉し,何れも必要とし,本体も転化しなけれ ばならないのだ。皆さんが知っていることだが,その佛体は常人の中で顕現してはいけな い,精一杯力を入れば形態を顕現させることができ,常人の目では彼の光影が見える。こ の身体は,転化されてから,常人の中で常人と同じようになり,常人では見分けられず, 彼は空間を通り抜けることができる。元嬰が4〜5寸くらいの高さになった時,気泡もそ れなりの高さに成長した,それは風船の皮のように,透明である。元嬰は打坐をしていて 動かない。これくらいの大きさになった時,この気泡は丹田を離れようとする,それは既 に生成して,瓜が熟すとへそから落ちるようになるので,上昇が始まる。上昇過程は非常 に緩慢な過程であるが,毎日もそれが移動しているのが見える。徐々に上へ移動し,上へ 上昇する。我々は子細に体験すればそれの存在が感じられる。

 人の中穴の位置に上昇した時,それはここで暫く泊まる。人 体の精華,多くのもの(心臓もここにある)がこの気泡の中で一式を形成するからである 。精華のものはそれのその気泡の中に充実させられる。暫くしてから,それがまた上昇し 始まる。人の首を経過する時,息が詰まる気がして,血管が締めつけられるように,張っ て堪らないほど苦しいが,一、二日すれば過ごす。それが頭上にまで達した,我々は「上 泥丸」と言う。泥丸に達したと言うが,実はそれはあなたの大脳と同じ大きさで,あなた は頭が張る感じがするはずだ。泥丸は人の生命の極肝要な所であり,それも中で精華のも のを形成させる必要がある。それからそれが天目という通道から外へ分けて出る,その感 じは大変辛い。天目が随分痛いほど張り,こめかみも張り,眼球も中へくぼむ,それが分 けて出るまでになると,前額という所に掛けられる,これが「玄関設位」と言い,ここに 掛けられている。

 天目が開いた人は,この時になると何も見えなくなる。佛道二家の修煉は,玄関の中の ものをできるだけ速く形成させる為であるから,その門は開けない。前面に二枚の大門が あり,後面に二枚の門があり,全部閉めている,正に北京の天安門の門の通路の様に,両 側にそれぞれ二枚の大門がある。それをできるだけ速く形成と充実させる為であるから, 門は極めて特別な状況が無いかぎり開けないのであり,天目が見える者も,この一歩に来 ると見えなくなり,見させないのだ。それがここに掛かる目的は何の為であるか?我々の 身体の百脈がここから会合し,それでこの時百脈が全部玄関を経由して一回り回って出て ,全部玄関を通る,目的は玄関の中で更に少し基礎を打ち立てて,この一揃いのものを形 成する。人体が一つの小宇宙であるから,それは一つの小世界を形成し,全部の人体の精 華のものは何れもその中で形成される。但しそれは一揃いの設備を形成するだけで,まだ 完全に運用できないのだ。

 奇門功法の修煉では,玄関は開けているのだ。玄関が射出された時,真っすぐの筒であ るが,段々と丸くなるから,それの両側の門は開けているのだ。奇門功法は佛も修めない し道も修めなく,自分で自分を保護するからである。佛道二家には師父がとても多いので ,皆あなたを保護できるから,あなたが見る必要がなく,問題が出ることもない。ところ が奇門功法では駄目で,彼は自分で自分を保護しなければならないので,彼は見えること を保持しなければならない。しかしその時天目でものを見る時,正に望遠鏡の直筒を通じ て見るようである。それからこの一揃いのものが形成されてから,1カ月程するとそれが 戻り始まる。頭の中に戻ってから,それは「玄関換位」と言う。

 帰る時も辛く張り,それから人の玉枕穴から分けて出る。分けて出る感じもかなり辛く ,頭が張り裂けたように,いっぺんに出て来た,それが出ると直ちに軽快に感じる。出て 来てから,それが非常に深い空間の中に掛けられており,非常に深い空間のその身体形式 上に於いて存在しているので,寝ていてもそれをごつごつさせるような事はない。しかし 一つの事があり,玄関が初めて設位した時に目の前に感じがあり,それは別の空間にある が,何時も目の前にぼんやりと見えるように感じ,何かに遮られたようで,あまり気持ち が良くない。玉枕穴はかなり肝要な大きな関所の一つであるので,後面にも一揃いのもの を形成し,それが又戻り始まる。この玄関一竅は実際は一竅だけではなく,それが何回も 位置を換えるのだ。それが泥丸に戻ってから下降し始め,身体の中から下降し,ずっと命 門穴まで続く。命門穴でそれが又射出される。

 人の命門は極めて肝要な主要な「大竅」で,道家は竅と言い,我々は「関」と言う。主 要な一大関で,それは確かに鉄の門で,無数重の鉄の門だ。皆さんの知っているように身 体は幾重にも重なっており,我々の現在の肉体細胞は一重であり,中の分子は一重であり ,原子、陽子、電子,無限小,無限小,無限小,極めて小さい微粒子まで,どの面にも一 重の門が設けられている。だから多くの功能,多くの術類のものがあるが,いずれも各重 の門の中に閉じられる。他の功法で丹を煉るが,丹が爆発する時,先ず命門を震えさせて 開ける,それが震えて開かなければ,功能が放射されない。玄関が命門穴で一揃いのもの を形成してから,それが再び中に入る。入ってから下腹の部位に戻り初める,これは「玄 関帰位」と言う。

 帰位になってから,それの元の所に戻るのではない。その時元嬰は既にかなり大きくな って,気泡が元嬰に覆って,元嬰を包んでいる。元嬰が成長するにつれて,それも従って 成長する。道家の元嬰が一般に6〜7歳の子供の模様に成長した時,彼に身体を離れさせ る,「元嬰出世」と言う。人の主元神が彼を主宰しているから,彼が出て来て活動できる ようになる。人の身体はじっとそこに定して動かず,元嬰が出て来る。一般には佛家元嬰 は本人と同じ大きさまで修煉した時危険が無くなる。通常この時彼が体を離れるのを許し ,この身体から離脱して,出て来る事ができる。この時,元嬰が本人と同じくらいの大き さになり,カバーも大きくなり,そのカバーは既に体外に出るまで拡大される,それがそ の玄関である。元嬰がこんなに大きくなったのだから,それが体外に拡大されたのは当然 の事だ。

 皆さんが廟の中の佛像を見たことがあるかも知れないが,見た通りに佛像がいつも一つ の輪の中におり,特に画かれたあの佛像には,いつも一つの輪があり,中に佛が座ってい る。多くの佛像は皆こうであり,特にあの古い廟に画かれた佛像は,皆こうであるのだ。 何故輪の中に座っているのか,誰もはっきり説明できない。私が皆さんに教えよう,この 玄関であるものだ。しかし今はそれはもう玄関と言わず,世界と言うが,まだ確実に世界 と言えない。それはただこの揃いの設備があるだけで,正に我々の工場に一揃いの設備が あるが,生産能力が無く,必ずエネルギーがあり,原料があってから初めて,それは生産 ができることと同じだ。数年前多くの修煉の人は,私は菩薩より功が高い,私は佛より功 が高いと言っていたが,他人は聞いたら不思議だと思った。実は彼の言った話はちっとも 不思議のことはない,功は確かに世間で非常に高く煉らなければならないのだ。

 それでは何故こういう情況が出現して,佛よりも高く修成できたのか?このように表面 から理解していけない,彼の功は確かに非常に高い。彼がかなり高い層次上まで修めてか ら,彼の「開功開悟」に達する時,功は確かに非常に高いものだ。彼が開功開悟となる前 のその一瞬間に,彼自分の功の十分の八を折り,彼の心性標準をも折る。この能量で彼と いう世界,彼自分自身の世界を充実させる。皆さんの知っているように修煉人のこの功, 特に心性の基準を加えたこのものは,人が一生で数知れない苦しみを受け,困苦の環境下 で錬磨され、修煉して出来たものだから,それは極めて貴重なもので,こんなに貴重なも のを十分の八持ち出して彼の世界を充実させる。だから将来彼が修成した時,ほしいもの があれば手を伸ばすとすぐ得られ,欲しいものは何でもあり,やりたいことは何でもやれ る,彼の世界の中に何でもある。これは彼の「威徳」であり,自分で苦しみを嘗めること を経て修めて出来たものだ。

 彼のこの能量は任意に如何なるものに変化することができる。それで,佛はほしいもの ,食べたいもの,遊びたいもの,何でもある,これは彼自身で修めて得たもので,即ち佛 位である,このものが無ければ彼は修成できないのだ。この時になると,それを一つの自 分の世界と称することができるが,彼はただ残りの十分の二の功を以て圓満となり、道を 得る。十分の二だけ残ったが,彼の身体は閉められていず,或いは身体を持たず,或いは 身体を持っているが,身体は既に高能量物質に転化されたので,その時彼は神通が大いに 現れ,威力が無比となる。しかし常人の中で修煉する時は往々にして鍵を掛けられている のであり,そんなに大きな腕前がなく,功が幾ら高いとしても制限される,現在は違うこ とだ。