先生は学員に何を与えたか
一部の人は私に会ってから私の手を取って,握るとなかなか離さない。他の人は他人が
握手に来たのを見ると,彼も私と握手する。私は彼の心が何を考えているのか分かる。あ
る人は先生と握手をして,嬉しく思う;ある人は何か「信息」を貰いたく,手を握って離
さない。我々は皆さんに教えよう,真の修煉はあなた個人の事で,ここは
病健身をしたり,あなたに何か信息を与えたり,あなたの為に病気を除いたりす
るような所ではない,我々もこの事を講じない。あなたの病気は私が直接取り去り,煉功
点では私の法身が取り去り,本を読みながら独学する場合にも私の法身が取り去る。あな
たは私の手を撫でると「長功」ができると思うか?それは冗談ではないだろうか?
功は自分の心性により修めるものだ。あなたは実修しなければ,その功は長じられない
のだ,それは心性基準がそこにあるからだ。あなたに長功する時,層次が高い者はあなた
のその執着心、その物質が取り除かれたら,頭上に一つの尺度が出るのが見える。そして
この尺度は功柱式の存在であり,尺度がどれくらい高ければ,功柱もどれだけ高い,それ
はあなた自身が修めて出来た功を代表し,あなたの心性の高さをも代表する。他の人の誰
があなたに幾ら加えても駄目で,僅かばかり加えても置けず,やはり落ちてしまう。私は
直ちにあなたを「三花聚頂」に到達させることができるが,あなたがここの門を出ると功
が落ちてしまう。それはあなたのものではなく,あなたが修めて出来たものではないので
,置くことができない,あなたの心性の基準がそこに達していないため,誰でも加えたり
することができず,それは全く自分によって修めて出来たもので,自分のその心を修煉す
ることだ。着実に上へと功を長じさせ,絶えずに自分を向上させ,宇宙の特性に同化して
こそ初めて,あなたが上がれるのだ。ある人は私にサインしてほしいと頼んだが,私はサ
インしたくない。ある人は先生がサインしてくれたよと言って,彼が誇示しようと思い,
先生から信息の保護が欲しいと思っている。これはまた執着心となったのではないか?修
煉は自分によるもので,あなたは何の信息を言うものか?高層次上での修煉はこのものを
言えるものか?それは何だと言えるのか?それはただ
病健身に対
して講じるものだけだ。
あなた自分で煉り出したその功は,極めて微視的な下に於いて,その功の微粒子上はあ
なたの形象にそっくりだ。世間法を歩き出た時になると,あなたは佛体修煉をすることに
なる。その功は皆佛体の形状となり,非常に奇麗に見え,蓮花の上に座って,どの小微粒
子の上にもいる。処が動物のその功は,いずれも小さい狐、小さい蛇そのもので,極めて
微視的な微粒子上にこういうものばかりである。それにまた何かの信息の,お茶をかき混
ぜてあなたに飲ませ,どうせそれも功であるのだ。常人はただ一時的に苦痛を解除し,病
を先に回し,抑制する為だけであり,いずれにしても常人は常人であり,彼が自分の身体
を幾ら悪くしても,我々は構わない。我々は煉功人だから,私はあなたにこれらの事を教
えたのだ。これからは皆さん是非こんな事をしないでください,信息なんか,あれこれの
ことを,是非求めないでください。ある気功師は:俺が君達に信息を出すから,君達は全
国各地で受け取ってくださいと言っていた。何を受け取るのか?私が貴方に教えよ,これ
らの事は何も大きな役割を果たすことができない,譬え良い所があると言っても,せいぜ
い
病健身を求めるのに過ぎない。我々は一人の煉功人として,功
は自分で修めて出来たもので,他の人が出した信息功などは層次を向上させることができ
ず,常人の為に病気を除くだけである。必ず心を正しくし,修煉することは誰も代わって
やることができず,あなた自身が真に修煉してこそ初めて,自分は層次を向上させること
ができる。
それでは私は皆さんに何を与えるのか?皆さんが知っているように我々の多くの人は煉 功をしたことがなく,身体に病気がある;多くの人は多年煉功したが,やはり気の中で徘 徊しており,功も無い。勿論ある人は人の病気を治療しているが,あなたはどのように治 療しているのか知らない,私が憑依の問題について述べた時,私は既に真に大法を修めら れる人の体に付いている憑依,どんなものであろうと,身体の中から外までのあらゆる良 くないこれらのものを,全部取り去った。真の自修の人はこの大法を読んでいる時,あな たの為にも身体を調整し,しかもあなたの家の環境も,整理してあげる。今まであなたが 供えていたその狐、鼬の位牌を,あなたは速く捨ててください,全部整理してあげた,一 切も存在しなくなった。あなたは修煉しようとするから,我々はあなたの為に最も方便の 門を開き,あなたの為にこれらの事をすることができる,しかし真に修煉する人だけに限 られる。勿論一部の人は修煉のことも考えていず,今になってもまだ解って来ない,それ には我々も構うことができず,我々が構うのは真の修煉の人のみである。
またこの様な人もいる,以前人は彼の身体に憑依があると言ったが,彼自身もあると感 じている。しかし一旦彼の為に取り去ってからでも,彼の気病みは無くされず,彼はいつ もその状態が未だ存在していると感じ,彼はまだあると思っている,これはもう一種の執 着心となり,疑心と言う。長く続ければ,彼自身はうまくやれないと又招くはずだ。あな た自身はその心を放下しなけれならず,全然存在しないものなのだから。一部の人に我々 は以前行った班でもう彼の為に処理した,私は既にこれらの事をやった,全ての憑依を取 り去ってやった。
道家は低い層次で煉功するには少し基礎を造り,周天を形成し,丹田その田をも形成さ
せ,又他の方面の幾らかのものも形成する必要がある。我々はここで『法輪』、『気機』
,全ての修煉の『機制』等沢山の,一万にも止まらないこれらのものを,全部あなたに与
え,種のようにあなたに植え付ける。あなたの病気を除いてから,するべき事をし,与え
るべきものをあなたに与え,あなたはこれで始めて我々のこの法門の中で真に修煉できる
ようになる。そうでなければ,何もあなたに与えないのなら,それは
病健身であるだけだ。正直に言えば,一部の人は心性を重んじなければ,体操をする
のにも如かないのだ。
真に修煉するのであればあなたに責任を負わなければならない,これらの人は自修でも 同様に得られるが,真に修める者でなければならない,我々はこれらのものを真に修める 者に全部与える。私が言ったように,真にあなたを弟子として教えなければならない。こ のほかに,高層次上の法を必ずすっかり飲み込んで,どの様に修煉するかを知るべきであ る;五つ揃いの功法は一度で教えてあげ,全部身につけるようにさせる。将来になって, あなたは一つの相当高い層次,あなたが想像もできないほど高い層次に到達することがで き,正果が得られる事は問題がない。あなたが修煉する限り,この法を私が違う層次を結 び付けて説いているので,今後あなたが不同層次で修煉する場合,あなたはそれがあなた に何時も指導的役割を果たしていることに気付くはずだ。
一人の修煉人として,今後の人生の道路が変わる筈で,私の法身は新たにあなたの為に 手配するのだ。どの様に手配するか?一部の人は生命の過程がまだどれくらい残っている か?彼自身も知らない;一部の人は一年か半年くらい経てば大病に罹るかも知れず,病に なると数年間も治らないかも知れない;ある人は脳血栓やその他の病気に罹って,全然動 けなくなるかも知れない。今後の人生の道路の中で,あなたはどの様に修煉するか?我々 はあなたの為に全部整理し,これらの事が発生しないようにする。しかし我々は前もって はっきり言っておき,真に修煉する人の為にこの事しか出来ず,勝手に常人の為にやって はそれはいけない,それは悪事をするのに等しい。常人の生老病死といった事はいずれも 因縁関係があり,随意に破壊してはいけない。
我々は修煉の人を一番貴重のものと見ているから,修煉の人にしかやれない。どの様に やるのか?もし師父の威徳がかなり高い,つまり師父の功力がかなり高いなら,彼はあな たの為に業を消すことができる。師父は功が高ければあなたの為に沢山消すことができる が,師父は功が低ければ少しだけ消すことができる。我々は例を挙げて言って見よう,あ なたの今後の人生道路にある各種の業力を集中して,それを一部分を消し,半分を消す。 残りの半分でもあなたは通れず,山よりも高い。どうしようか?あなたが得道した時,将 来多くの人も受益になるかも知れない,こうして,多くの人はあなたの為に一部を負担し てくれる。勿論彼らにとっては大したものではない。あなた自身にも沢山の「演煉」した 生命体がおり,そしてあなたは自分の主元神、副元神の他に,多くのあなたがいるから, いずれもあなたの為に一部を負担する。あなたが「劫難」を過ごす時,残りが幾らもなく なった。残りが幾らもないと言っても,それはやはり相当大きくて,あなたはやっぱり過 ごせない,それではどうしたら良いか?それを無数の若干の部分に分けて,あなたの修煉 の各層次の中に置き,それを利用してあなたの心性を向上させ,あなたの『業力』を転化 させ,あなたの功を長じさせる。
又,一人の人として修煉しようとすることは,そんなに容易な事ではない。私が言った
ようにこれは一つ非常に厳粛な事で,そしてそれは常人を超えることで,常人の中の如何
なる事よりも少し難しい。それは超常のものではないか?だから常人の中の如何なる事よ
りもあなたに対する要求は高い。我々人間には元神があり,元神は不滅であるのだ。若し
元神は不滅であるものであれば,皆さん考えて見よう,あなたの元神はあなたの生前の社
会活動の中で悪い事をしたことがないか?非常に可能なことだ。殺生をしたとか,誰かに
何か借りがあったとか,誰かを苛めたとか,誰かを傷害したとか,といったような事をし
たかも知れない。そうだとするなら,あなたがこっちで修煉しているのが,彼はそっちで
はっきりと見える。あなたが
病健身をするなら彼はあなたに構わ
ず,彼はあなたが先に推しているのが分かっており,あなたは今返さなくても将来返し,
将来返すのは更に重くなるのだ。だからあなたは暫くの間に返さなくては,彼が構わない
。
あなたは修煉しようとすると言うと,彼は承知しない:お前が修煉しようとするか,お 前が行ってしまう気か,お前に功が長じると,俺がお前に届かなくなり,俺がお前に触れ なくなってしまう,彼は承知しない。彼はありとあらゆる手段を尽くしてあなたを阻んで ,あなたに修煉させないから,各種の方法を取ってあなたを邪魔し,酷いことになると真 にあなたを殺しに来るのだ。当然の事だがあなたが打坐をしている時頭を吹き飛ばされる ような事はあり得ない,これは不可能だ,常人の状態に符合しなければならないからだ。 出掛けると自動車と衝突したり,ビルの上から落ちたり,あるいは他の危険に遭うかも知 れない,このような事があるのは可能だから,相当危険な事だ。真の修煉はあなたの想像 した程容易な事ではない,あなたは修煉しようと思えば,修煉して上がれるものか?真に 修煉しようとすれば,直ちに生命の危険に遭い,直ちにこの問題に関わる事になる。多く の気功師は敢えて高層次上へ功を伝え人を取って行かない。何故だろうか?彼はこの事が 手に負えず,彼はあなたを保護できないからだ。
以前多くの伝道の人は,彼が一人の徒弟にだけ教えられ,彼は一人くらいの徒弟を保護 すればまあ何とか間に合う。しかしこんなに大面積の場合なら,一般の人にはあまりやる 勇気が無い。しかし我々が皆さんに言ったように,私はこの事ができる,私には無数の法 身があり,私の非常に大きな「神通法力」を備え,かなり大きな神通,かなり大きな法力 を顕わすことができるからである。しかも我々が今日やっているこの事は我々が表面から 見たように簡単ではなく,私は頭が熱くなって出て来てやったのでもない。私はあなたに 教えても構わない,多くの大覚者は皆この事に注目しており,我々が末法時期に正法を伝 えるのはこれが最後の一回である。我々がこの事をするのに偏差が出るのも許されないこ とだ,真に正道へ修煉すれば,誰も敢えてあなたを勝手に動かしに来ない,そしてあなた に私の法身の保護があるので,如何なる危険も出現しないのだ。
借りは返さなければならない,それで修煉の道で幾らかの危険な事が発生するかも知れ ない。しかしこの様な事が起こった時,あなたは恐れないし,あなたに真に危険な事が出 現することもない。私は皆さんに少し例を挙げられる。私が北京で班を行った時,ある学 員が,自転車に乗って街を横断して,街の曲がりの処に来た時,一台の高級乗用車が急カ ープの処で我々のこの学員と衝突した,この学員は女性で,50歳を越えた。その乗用車 が急に彼女と衝突し,酷く衝突した,ドカーンと頭に当たる音が聞こえた,彼女の頭は丁 度ほろに当たった。この時この学員の足がまだ自転車に跨がったままだ,頭を酷く打って しまったが,痛くない。痛くないばかりか,出血も無く,腫れ上がりも無かった。その運 転手が吃驚して,慌てて車から飛び降りて彼女に,「怪我でもしたのではないか,病院に 連れて行ってあげようか?」と勧めたが,彼女は大丈夫だと答えた。勿論我々のこの学員 は心性がかなり高いので,人に迷惑を掛けることはしない。大丈夫だと言ったが,その乗 用車の車体には大きく凹んだ跡があった。
この様な事は,皆命を取りに来る事だが,危険は無い。我々がこの前吉林大学で班を行 った時,ある学員が吉林大学の正門から出て,自転車を推して,真ん中に来たばかりのこ ろ,二台の乗用車が急に彼を中間に挟み,今すぐ衝突する瞬間だった,しかし彼は少しも 恐ろしく思わなかった。我々は往々にこのような事に遭っても恐れない,その瞬間に,車 が止まった,問題が起こらなかった。
北京で又この様な事が起こった。冬は暗くなるのは割に早いから,人々が寝るのも割に 早い。街には人がいなくて,とても静かだった。ある学員が自転車に乗って帰宅を急いで いた,前方に一台のジープが走っており,走っているうちに,その車が突然止まった。彼 は気がつかずに,まだ頭を下げて前へ乗り続けた。しかしそのジープが突然後ろへバック し,急速にバックし,バックのスピードがかなり速かった。この二つの力が一になるのは ,それも命を取りに来るのだ。もう少しで衝突するすぐその瞬間,一つの力が急に彼の自 転車を後ろへ半メートル位引っ張り,ジープは彼の自転車の車輪に触れる寸前急ブレーキ を掛けた,車内の運転手が後ろに人がいるのに気付いたのだろう。この学員も当時怖くな かった,凡そこの様な状況に遭ったら誰でも怖くはないが,後になって怖くなるかも知れ ない。彼が先ず思いついたのは:おや,誰が私を引っ張ったのか,彼に感謝しなければな らない。振り返って有り難うと言おうと思って見たら,街は一人もいなく,静かだった。 彼はすぐ分かった:先生が守ってくれたのだ。
もう一件は長春にあった出来事だが。ある学員の家の傍にビルが建っている,今のビル はかなり高く建てられている,その足場の骨組みは皆直径二寸太い鉄管で,四メートル長 い。この学員が家から出て来て遠くない所に,一本の鉄管が高いビルの上から,真っすぐ に彼の頭に向かって落ちて来た,街の人は吃驚してぼんやりした。彼は「誰かが私を叩い たか?」と聞いた,彼は誰かが彼の頭を叩いたと思った。すぐその瞬間振り返った処,頭 上に一つの大きな『法輪』が旋転しているのが見えた,その鉄管は頭に沿って滑り落ちた 。滑り落ちてから地に突き刺さって倒れなかった。それは若し体に刺さるとしたら,皆さ ん考えて見よう,そんなに重い,それは正に「サンザシを串に刺す」のように,貫通して しまうのだ,何と危険な事だったろう!
この様な事はかなり多く,数え切れなかいほどだったが,危険が発生した事は無かった 。この様な事に必ずしも皆遭うと限らないが,我々の個別の人は遭うことがある。遭って も良し,遭わなくても良し,あなたに如何なる危険も絶対起こらない,この点について私 は保証できる。一部の学員は,彼は心性の要求の通りにせず,ただ動作を煉るだけで心性 を修めないので,彼は煉功人とは言えない。
先生は何を与えるかと言うと,私は皆さんにこれらのものを与える。私の法身はずっと あなたが自分であなた自身を保護できるまで保護し,その時あなたが世間法の修煉を歩き 出て,あなたが既に「得道」した訳である。しかしあなたは必ずあなた自分を一人の真の 修煉人とするべきで,これでこそこの点ができる。ある人は手に私の本を持って,街を歩 きながら,「李先生が保護してくださるから車が衝突して来ても怖くないぞ。」と叫んだ 。これは大法を破壊することで,このような人を保護することはしない。実は真修の弟子 はこのような事をしないはずだ。