修煉は専一でなければならない
我々は修煉は専一でなければならないことを重んじる,あなたはどんなに修めても,他 のものを交ぜ入れて出鱈目に修めてはいけない。ある居士は,彼が佛教のものを修めるし ,我々法輪大法のものを修める。私があなたに教える,最後にあなたは何も得られず,誰 もあなたに与えないのだ。我々は皆佛家のものであるが,この中に一つの心性の問題があ り,同時に又一つの専一の問題があるからである。あなたは身体が一つしか無く,あなた の身体にはどの門の功が生じるか?如何にあなたの為に演化するか?あなたはどこへ行く か?あなたはどの法門に従って修めればあなたはそこに行くのだ。あなたが浄土に従って 修めれば,それであなたは阿弥陀佛の極楽世界に行く;あなたが薬師佛のものに従って修 めれば,それであなたは琉璃世界に行く,宗教の中ではこのように言ったのであり,不二 法門と言われている。
我々がここで説いた煉功は,確かに功全体の演化過程で,皆彼自分のその修煉法門に従 って歩むのだ。あなたはどこへ行くか?あなたは足が二叟の船に踏むとしたら,何も得ら れないのだ。煉功と廟の中での修佛の間は混合してはいけないだけでなく,修煉方法の間 、気功と気功の間、宗教と宗教の間も混合してはいけない。同じ宗教でも,その間の幾つ かの法門も混同して修めてはいけない,一つの法門しか選ばない。あなたは浄土を修める なら,浄土しか選べない;あなたは密宗を修めるなら,密宗しか選べない;あなたは禅宗 を修めるなら,禅宗しか選べない。あなたは若し足が二叟の船に踏んで,これも修めるし ,あれも修めるなら,何も得られない。つまり佛教の中でも不二法門を重んじ,あなたが 混ぜて修めることは許されない。彼も煉功であり,彼も修煉であり,彼の功の生成過程は 皆彼のその一法門で修煉の、演化の過程に基づいて行っているのである。別の空間の中に も一つの功の演化過程があり,一つの極めて複雑玄妙な過程でもあり,勝手に他のものを 混ぜて修めることもいけない。
一部の居士は,佛家功を煉ることだと聞くと,我々の学員を廟へ引っ張って帰依させる 。私があなたに教える,我々の在席の学員は,誰でもこの様な事をしないでください。あ なたは我々の大法をも破壊するし,佛教の戒律をも破壊する,同時にあなたも学員を邪魔 し,あなたは人に何も得られないようにさせる,これは許されないのだ。修煉は一つの厳 粛な問題であり,専一にしなければならない。我々が常人の中で伝えたこの部分は,宗教 ではないが,修煉の目標は一致して,皆「開功、開悟,功成りて圓満」とのような目的に 達するのだ。
釈迦牟尼の言ったように,末法時期になって,寺院の僧も自己を度し難いのに,況して 居士であり,司る人が尚更いないのだ。あなたは弟子入りしていたが,そのいわゆる師も 一人の修煉の人で,彼は実修しなければだめだ,この心を修めなければ,誰も上れない。 帰依は常人の中の形式である,あなたが帰依したら佛家の人になったものか?佛はあなた を管掌するようになるものか?そんな事は無い。あなたは毎日頭に傷がつくほど額衝いて も,一束一束の線香を焚いても,やはり役に立たない,あなたは真にあなたのその心を実 修しなければならない。末法時期になって,宇宙には既にかなり大きな変化が発生して, 宗教信仰の所でさえも駄目になった,功能のある人(和尚を含む)もこの状況に気付いた 。今全世界で私一人だけが公開にして正法を伝えており,私は一件の先人がやったことの ない事をやった,そして末法時期にこの様に大きな門を開いた。実は千年も会えず,万年 も会えないのだが,度することができるかできないかはつまり修められるかどうかはやは り自分によるものだ,私が講じたことは一つの厖大な宇宙の理である。
私はあなたに是非私のこの法輪大法を学べと言うわけではなく,私が講じたことは一つ の理である。あなたが修煉するには,あなたは専一にしなければならない,そうでなけれ ば,あなたは絶対に修煉できない。勿論あなたは修煉したくないなら,我々もあなたに構 わない,法は真に修煉する人に説いて聞かせるのである,だから専一にしなければならな い,他の功法の意念を混ぜ入れてもいけない。私はここで意念活動ということを言わない ,我々法輪大法は如何なる意念活動が無いから,皆さんも中に何か意念のものを入れない でください。この点に注意しなければならない,基本的に意念活動は無い,佛家は空を唱 え,道家は無を唱える。
私はある時に自分の思想を四、五人の層次の極めて高い大覚者、大道と一緒に繋いでい た。高いと言えば,常人に於いて見るとまるで高くて人の耳に聞き立たせるほどだ。彼ら は私の心に於ける考えは何かを知りたがった。私はこんなに多年に亙って修煉して来て, 他人が私の思想を知るということは全く不可能で,他人の功能は全然打ち込めない。誰も 私のことを知れず,彼も私が何を考えているかを知れない,彼らは私の思想活動を知りた がるので,彼らは私の同意を得てから,一時期私の思想を彼らと繋いでいた。繋いでから ,私は少し耐えられなくなった,私の層次が幾ら高かろう,私の層次が幾ら低かろう,私 が常人の中におり,私はまだ一種の有為な事,人を度する事をしており,心は人を度して いる。処が彼らのその心はどんな程度まで静まっていたのか?一種の恐ろしい程度まで静 かになった。あなたは一人でこの程度まで静まるなら未だしも,四、五人もその中に座っ て,皆この様な程度まで静かになって,よどみのように何も無い,私は彼らを感じて見た かったが感じられなかった。あの数日間私は本当に非常に心が辛く思って,一種の言えな い気持ちを感じた。我々の一般の人は想像できず,感じられないのであり,完全に無為で あり,空であった。
非常に高い層次に於ける修煉には意念活動が全く無い,あなたは常人の基礎作りという 層次で,その基礎が既にできたからだ。高層次上での修煉では,特に我々の功法では自動 的で,完全に自動的に修煉するものである。あなたはあなたの心性を向上しさえすれば, あなたの功が長じており,あなたはひいては如何なる手法もする必要がない。我々の動作 は自動的なメカニズムを強めるためである,何故禅定中に彼は何時も座禅して動かないの か?根本的なことは無為であるのだ。道家はこの手法やら、その手法やら,意念活動やら 、意念引導を重んじるが。私はあなたに教えよう,道家はちょっとだけでもその気の層次 を飛び出してから,何も無くなり,この意念とか、あの意念とか根っから重んじない。だ から一部の他の気功を煉った人は彼はどうしても呼吸や、意念などを放下できない。私は 彼に大学のものを教えてやったのに,彼は何時も私に小学生の事,如何に引導するとか, 如何に意念活動するとかを聞いて来る,彼は既にこういうふうに慣れている,彼は気功は こんなものだと思い込んでいるが,実際はそうではないのだ。