五行の中にいず,三界の外に歩き出る
「五行の中にいず,三界の外に歩き出る」とは何の事か?この問題を言い出せば非常に 鋭いことだ。過去多くの気功師がこの問題に言い及んだが,気功を信じない人に随分絶句 されてしまった。「お前らの煉功の者の中で誰が五行を歩き出たか,お前らの誰が三界に いないようになったか?」一部の人は彼は気功師ではなく,彼のこの気功師は自任したの だ。はっきり言えない以上言わなくて良いのに,彼はまだ敢えて言おうとするから,人は 彼の口を塞いだ。修煉界にかなり大きな損失をもたらし,かなり大きな混乱をもたらして ,人はこれを利用して気功を攻撃した。「五行の中にいず,三界の外に歩き出る」は,修 煉界の一句の言葉であり,それは宗教に由来し,宗教の中に生まれたのだ。だから我々は この歴史背景を脱離し,当時の環境を脱離してこの問題を講じる訳には行かない。
五行の中にいずとはどういう事だろうか?我々中国の古い物理学も、現在の物理学も中 国の五行学説は正しいものだと認めている。金、木、水、火、土という五行が我々宇宙の 中の万事万物を構成している,これは正しい,だから我々はこの五行を講じる。この人が 五行を歩き出ると言うことを,現在の言葉で言うと,つまり我々のこの物質世界を歩き出 るということであり,聴くと不思議だと思うだろう。皆さんこういう問題を考えて見よう ,気功師には功の存在があるのだ。私は試験をしたことがあり,多くの気功師もこのよう な試験をしたことがあり,彼の能量を測定する。この功の中にある物質成分は我々の現有 の多くの機器で全部検出できる,つまり気功師から発した成分はそのような一種の機器さ えあれば,功の存在を測定できる。現在の機器では赤外線、紫外線、超音波、低音波、電 気、磁気、γ線、原子、中性子を測定できるのだ。気功師は皆これらの物質を持っており ,また一部の気功師の発した物質は測定できない,機器が無いからだ。凡そ機器があれば 全部測定でき,気功師の発した物質は極めて豊富であることを発見した。
一つの特殊な電磁場の働きの下で,気功師は強大な輝光を発することができ,とても奇 麗だ。功力が高いほど,発した能量場も大きい。常人にもあるが,とても小さく、とても 小さい一種の輝光である。高能物理学の研究では,人々は能量が中性子、原子といったも のだと認めている。多くの気功師も測定を受けた,比較的に名望がある気功師も測定を受 けた。私も測定されたが,発したγ線と熱中性子が正常物質の放射量を80倍から170 倍まで超えたと測定された。この時,測定機器の指針が極限を指していた,指針が極端を 指したので,最後にどれくらい大きいのかまだ分からない。こんなに強大な中性子は,全 く不思議なことだ!人はどうしてこんなに強大な中性子を発することができるのだろうか ?これも我々気功師には功の存在があり,能量の存在があることを証明した,この一点に ついて科学技術界で実証を得た。
五行を歩き出るには,「性命双修」の功法でなければならない,性命双修の功法でなけ れば,彼の層次の高低の功しか長じさせないのだ。命を修めない功法なら,まだこの問題 が存在しない,彼は五行を歩き出ることを重んじない。性命双修の功法では,彼の能量が 身体のあらゆる細胞の中に蓄えてある。我々の一般の煉功の人,功が長じたばかりの人が 発した能量の顆粒はかなり粗く,隙間があり,密度が大きくないので,威力はとても小さ い。層次がいよいよ高くなった時になると,その能量密度は一般の水の分子よりも百倍、 千倍、億倍超えることも,可能であるのだ。層次が高いほど,その密度が大きくなり,細 かくなり,威力も大きくなる。このような状況下で,能量が身体の各個の細胞の中に蓄え られ,我々のこの物質空間の身体の各個の細胞だけでなく,他の空間に於けるあらゆる身 体,分子、原子、陽子、電子,ずっと極微視的な細胞の中にまで,全てこの能量に充実さ れている。長く続ければ,人の身体は完全にこの高能量物質で充満されるようになる。
この高能量物質には「霊性」がいるのであり,それは力があるものだ。それが多くなり ,密度が大きくなり,人体のあらゆる細胞に充満してから,それは人の肉体細胞,一番無 能な細胞を抑制できるようになる。一旦抑制されてから,新陳代謝ができなくなり,最後 に完全に人の肉体細胞に代替する。勿論私が言うのは易しいが,この一歩まで修めるのは 緩慢な過程である。あなたがこの一歩まで修めた時,あなたの身体の全ての細胞がこの種 の高能量物質に代替されてしまう,あなたが考えるがいい,あなたの身体はそれでもまだ 五行で構成されているものだと言えるか?まだ我々のこの空間の物質なのだろうか?それ は既に別の空間から採集した高能量物質で構成されたのだ。その『徳』の成分も別の空間 の中に存在する物質であり,それも我々のこの空間の時間場の制約を受けない。
現在科学によれば時間には場の存在があるのであり,時間場の範囲内になければ時間の 制約を受けない。別の空間でのその時空の概念は我々のこっちと皆違い,それはどうして 別の空間の物質を制約できるか?全く役に立たない。皆さん考えて見よう,この時あなた はもう五行の中にいないのではないだろうか?あなたはやはり常人の身体だろうか?全く そうではなくなった。しかし一点があるが,常人としては見分けられない。彼の身体はこ の程度まで変わったものの,修煉の終わりではなく,彼はまだ続けて層次を突破して上へ 修める必要があるので,彼はまだ常人の中で修煉しなければならない,人々は皆彼が見ら れなければ駄目だ。
それからどうなるのか?彼が修煉の過程に於いて,彼の全ての分子細胞は高能量物質に 代替されたが,その原子には配列順序があるのであり,分子、原子核の配列順序は変化が 発生していない。細胞の分子配列順序はその状態であり,触れると柔らかく感じる;骨の 分子配列順序の密度は大きく,触れると硬く感じる:血液の分子密度は非常に小さく,そ れは液体である。常人は表面からあなたの変化が見えなく,その分子細胞はまだ元のその ような構造と配列順序を保持しており,その構造に変化が起こっていないが,その中の能 量には変化が発生したので,この人はこれから自然老衰にならず,彼の細胞が滅亡されず ,それで彼は何時までも若さを保つことができるようになる。修煉の過程中,人が若く見 え,最後にそのように定められるようになる。
勿論,その身体は若し車に当たればやはり骨が折り,刃で切ればやはり血が出るだろう 。その分子配列順序が変わっていないからだ。ただそれが自ずから滅亡されず,自ずから 老化せず,新陳代謝が無い,これが我々の言った「五行を歩き出る」である。ここには迷 信などあるのか?科学の道理でも全部筋が通るように解釈できるのだ。一部の人ははっき り言えないのに勝手に言うから,人はあなたが迷信の事を言っているのだと指摘する。こ の言葉そのものは宗教に由来したものであり,我々の現代気功の付け出した名詞ではない 。
「三界を歩き出る」とは何か?私はあの日に言ったように,「長功」の要は我々が心性 を修煉して,宇宙の特性に同化して,宇宙の特性があなたを制約しないようになったら, あなたの心性が上昇するようになったら,その徳の成分が功に「演化」する。絶えずに上 へ長じ,上へ上昇し,高層次上に昇華してから,一本の「功柱」を形成する。この功柱は どれだけ高ければ,あなたの功もそれほど高い。この様な一句の言葉がある:大法は果て しが無く,全くあなたのその心により修め,あなたがどれくらい高く修められるか,全く あなたの忍耐力と苦しみに耐える能力によることだ。あなたの自身の白色物質は使い果た したら,あなたの自身の黒色物質は苦しみに耐え忍ぶことによってそれも白色物質に転化 できる。まだ足りないなら,親戚友人のもの,彼は修煉しないなら,あなたは彼に代わっ て過ちを受け取れば,あなたも「長功」できる,これは極高い層次まで修煉した人を指す のだ。一人の常人として修煉するあなたは親戚に代わって過ちを受け取るような考えを持 ってはならない,そんなに大きな業力なら一般の人は修成できないのだ。私がここで講じ たことは不同の層次の理である。
宗教の中で言う三界は,九層天或いは三十三層天のことを言うのであり,つまり天上、 地上、地下で,三界内の衆生を構成している。彼は三十三層天内の一切生物が六道輪廻さ れると言っている。六道輪廻の意味は現世は人であるが,来世は動物になるかも知れない 。佛教の中では:生きている内の時間を掴んで,現在修めなければ何時修めるのか?動物 は修煉を許されず,法を聞くのも許されないので,修めても「正果」を得ず,功が高くな れば天に殺される。あなたは何百年でも一つの人体を得られず,千年以上で始めて一つの 人体を得たが,一つの人体を得たのに大切にすることも分からない。あなたは若し一つの 石に生まれ変わったら万年でも出られない,その石は砕かれず,風化しない限り,あなた が永遠出られないから,人体を得ることは何と難しいだろう!若し真に大法を得られるな ら,この人は大変幸運であるのだ。人身が得難い,という道理を言っている。
我々は煉功するのに層次の問題を講じるが,この層次は全く自分自身によって修煉する のであり,若しあなたがその三界を超えたいと思うなら,あなたの「功柱」を非常に非常 に高く修められたら,あなたがその三界を突破できるのではないか?ある人は「打坐」し て元神が身体を離れた時,急にかなり高い所へ上がった。ある学員は私に:先生,私が幾 重の天に上がって,私はどの様な光景を見たと感想を書いて語ってくれた。私はもっと高 い所へ上がったらと言った。彼は:私がもう上れない,敢えて上れない,これ以上は上れ ないと言った。何故か?彼の功柱の高さはそこまでだから,彼は彼の功柱に乗って上った のだ。これが佛教の中に言う「果位」であり,その「果位」にまで修めたのだ。しかしこ れは修煉人にとって,まだ果位の頂点に達したということではない。彼はまだ絶えずに上 昇し,絶えずに昇華し,絶えずに向上している。あなたの功柱が若し三界の限界を突破し たら,あなたは三界を歩き出たのではないか?我々は測定して見たが,宗教の言う三界は ,我々の九大惑星の範囲に過ぎないと発見した。十大惑星だと言う人がいるが,私に言わ せればそれは全く存在しないことだ。過去のそれらの気功師は,ある者の功柱が銀河系以 外に衝いて,相当高く,その三界を彼にとってとっくに超えたと私は見ている。私が先程 言ったこの「三界の外に歩き出る」は,実は一つの層次の問題である。