気功は即ち修煉である
気功はこんなに久しく遠い歴史がある以上,一体何をする為のものだろうか?私が皆に 教えよう,我々のこれは佛家修煉大法であり,無論佛を修めるのである;その道家は無論 道を修め道を得るのである。私が皆に教えておく,この『佛』は迷信ではない。この『佛 』は梵語であり,古インド語である。当時我が中国に伝わった時は二文字で,「佛陀」と 言い,それを「浮図」と訳した事もある。伝え去り伝え来っては,我々中国人は一字を省 略して,それを「佛」と呼ぶようになった。中国語に訳せば,何の意味なのか?即ち覚者 であり,修煉を通じて覚悟した人である。この中に迷信色彩があるのだろうか?
皆が考えて見よう,修煉は特異功能が出せるのだ。現在世界では六種の功能が公認され ているが,これらに止まらず,私に言わせれば本当の功能は万種以上ある。人はそこに座 って,手も動かさないし足も動かさずに,他人が手足を動かしてもやれない事をやれる; 宇宙の各空間の本当の理が見え,宇宙の真相が見える;常人の見えないことが見える。こ れはまだ修煉の得道者ではなかろうか?まだ大覚者ではなかろうか?常人と同じであると 言えるか?まだ修煉して覚悟した人ではなかろうか?覚者と呼んでは正しくないのだろう か?古インド語に訳すれば「佛」となる。実際はこうであり,気功はこのために使うのだ 。
気功を言うと,ある人が言う:病がなければ誰が気功を練るか?言外の意味は,気功は
病を除くものだ,それはとても皮相な、とても皮相な認識である。この一点について皆を
咎めることはない,多くの気功師も
病健身という事をしており,
皆
病健身を講じており,誰も高層次上へと講じていないからであ
る。これは他人の功法が良くないと言うことではなく,彼の使命は
病健身その一層次のものを伝え,気功を普及するのである。多くの人は高層次上へ修煉
しようと思って,このような考え方があり,このような願望があるが,修煉は法を得てい
ないので,その結果として大きな困難を招き,沢山の問題が出現した。当然真に高層次上
で功を伝えるのは,かなり高い問題に関連する。だから我々は社会に責任を負い,人に責
任を負う事に基づいているので,全体の功伝えの効果は良いのだ。ある一部のものは確か
に高く,言えば迷信のようである,しかし,我々は出来るだけ現代科学でそれを解釈する
。
ある事を我々が言うと,ある人は迷信だと言う。何故だろうか?彼の基準は科学がまだ 認識していないのなら,或いは彼自身が接触していないのなら,彼が存在不可能だと思う のなら,彼は全て迷信だと,全て唯心なものだと思い込んでいることだ,彼はこのような 観念であるだけだ。このような観念は正しいのか?科学には認識されていず,まだこの一 歩まで発展していないものは,迷信だと,唯心だと言えるものか?この人こそ彼自身が迷 信の事をしているのではないか?唯心の事をしているのではないか?このような観念に従 えば,科学は発展出来るか、進歩できるか?人類社会も前へ推進できなくなるのだ。我々 の科学技術界が発明した物は皆前人に無かった物であり,皆迷信だと見るなら,無論発展 することが要らなくなるのだ。気功は何も唯心的なものではなく,多くの人は気功が認識 出来ないので,何時も気功は唯心的なものだと思い込んでいる。現在機器で気功師の身体 から低音波、超音波、電磁波、赤外線、紫外線、γ線、中性子、原子と微量金属元素等の 成分を測り出した,これらは物質の存在の物ではないのか?それも物質である。如何なる 物は皆物質で構成されたのではないか?別の空間も物質で構成されたのではないか?どう して迷信だと言えようか?気功は佛を修めるのに使う以上,それでは必然的に多くの高く 深い問題に及ぶので,我々は全部講じようと思う。
気功はこれをする為に使うものである以上,我々は何故それを気功と呼ぶのか?それは
実際に気功と呼ばない,何と呼ぶのか?『修煉』と呼び,つまり修煉である。無論,それ
にはまだ他の具体的な名前があるが,全体にしては修煉と呼んでいる。それでは何故気功
と呼ぶのか?皆が知っているように,気功は社会で普及されて既に20年間余りの歴史が
あり,「文化大革命」の中期からもう始まり,後期になって高潮に入った。皆が考えて見
よう,その時極左の思潮は相当酷かった。我々は気功のその史前文化の名前が何かを言お
うとせず,我々の今期人類文明の発展過程に,それが一つの封建社会を経過したので,往
々にして封建的色彩のかなり濃い名前を帯びている。宗教と関係があるものは,往々にし
て宗教色彩のかなり濃い名前を帯びている。例えば:「修道大法」、「金剛禅」、「羅漢
法」、「修佛大法」、「九転金丹術」など,皆これである。「文化大革命」の時に呼ぶな
ら,あなたは批判されるのではないか?気功師の気功を普及する願望は良いことで,広範
な群衆の為に
病健身をし,人々の身体の素質を高める,これはな
んと良いことだろう,それでも駄目で,人々はこう言う風に敢えて呼ぼうとしなかった。
だから多くの気功師は気功を普及する為に,「丹経道藏」の中から章を断じて義を取るよ
うに二字を取って,気功と呼ぶようにした。ある一部の人はまだ気功という名詞の中に潜
り込んで研究しているが,これは何も研究することはなく,過去それは修煉と呼んでいた
のだ。気功は現代人の思想意識に合わせる為に名付けられた新しい名詞に過ぎないのであ
る。