真 善 忍は良し悪し人を量る唯一の基準

 佛教の中で人々は何が佛法であるか?をずっと探究している。またある人は佛教の中で 講じられた法が,佛法の全部だと思っているが,実際にはそうではない。釈迦牟尼の講じ た法は,2千5百年前層次の極低いその様な常人,つまり原始社会から生まれ出たばかり の,思想の比較的単一という人に講じた法だけである。彼は末法時期は,つまり今日のこ とだが,現在の人はその法によってはもう修煉できないと言っていた。末法時期には廟の 中の和尚が自分自身までも非常に度し難い,況して人を度することなどなおさらだ。釈迦 牟尼が当時伝えた法はそのような情況に応じて伝えたのであり,そして彼も自分の所在層 次で知っていた全部の佛法を説き出していないので,彼に永遠に不変なことを保持させる のも,不可能なのだ。

 社会は発展している,人類の思想も益々複雑となり,それで人に又この様に修めさせる のは容易いことではなくなった。佛教中の法は佛法の全部を概括できなく,彼はただ佛法 の中のほんの僅かな一部分であるだけだ。まだ多くの佛家大法が民間に伝わっており,歴 代に単独に伝えている。不同層次に不同の法が有り,不同空間に不同の法が有り,これは 皆佛法の各空間、各層次の中に於いての不同の体現である。釈迦牟尼も佛の修めに8万4 千法門があると言った,しかし佛教の中で禅宗、浄土、天台、華厳、密宗など十幾つかの 法門しか無く,佛法の全部を概括できない。釈迦牟尼本人も彼の法の全部を伝え出してい ず,唯当時の人の受け入れる能力に応じて彼の一部を伝えただけだ。

 それでは何が佛法であろうか?この宇宙中の最も根本的な特性である『真 善 忍』,そ れが佛法の最高の体現であり,それが最も根本的な佛法である。佛法は不同層次の中に不 同の体現形式が有り,不同層次の中に不同の指導作用が有り,層次が低くなればなるほど 表現は乱雑である。空気微粒、石、木材、土、鉄鋼、人体,一切の物質の中にも『真 善 忍』という特性が存在している;古代に言われた五行により構成した宇宙中の万事万物に も,『真 善 忍』という特性が存在している。修煉の人はどの層次まで修めたらその層次 中の佛法の具体的な体現しか認識できず,これが修煉の『果位』、『層次』である。広げ て言えば,法はとても大きい。極めて高い点に着いて言えば,それは非常に簡単になる, 法は正に金字塔の形のようなものである。極めて高い層次上に着いたら三文字だけで概括 できる,それが『真 善 忍』であり,各層次に現れれば極めて複雑となる。人を例にして 言えば,道家は人体を小宇宙と見成し,人は物質の身体を持っているが,物質の身体を持 っているだけでは完全な人に構成することができず,また人の気性、天性、特性、『元神 』の存在が無ければならず,それで始めて一人の完全な、独立の、自我個性を持つ人を構 成できる。我々のこの宇宙も同じで,銀河系、他の星系が有り,生命と水も有り,この宇 宙中の万事万物,それは物質的存在の一方面である;しかし同時にそれにも『真 善 忍』 特性が存在している。如何なる物質の微粒子の中にもこの種の特性が含まれており,極め て小さい微粒子の中にもこの種の特性が含まれている。

 『真 善 忍』という特性は宇宙中の善と悪を量る基準である。何が良いか何が悪いか? それによって量るのだ。我々が過去言っていた『徳』も同じだ。無論今日の人類社会の道 徳水準は既に変化が起こり,道徳基準も歪んで曲がってしまった。現在誰かが「雷鋒」に 学ぶとしたら,その人は精神病だと言われるだろう。しかし五、六十年代には,その人を 精神病だなどと言う人が有り得るだろうか?人類の道徳水準は甚だしく滑落しつつあり, 世の気風がだんだん悪くなり,もっぱら私利を図り,個人のそれしきの利益の為に他人を 傷害し,争奪しあい,手段を選ばずにこうやっている。皆が考えて見よう,このように続 けて行くことが許されるだろうか?ある人は悪事をしているのに,あなたは彼に悪事だと 教えても,彼は信じない,彼は本当に自分が悪事をしていることを信じない;一部の人は 彼は滑り落ちた道徳水準により自分を量って,自分は他人より良いと思っている,量る基 準も変化が発生したからだ。人類の道徳基準がどのように変わるのにも拘わらず,この宇 宙の特性は変わることはなく,それは良い、悪い人を量る唯一の基準である。それで一人 の修煉人としてこの宇宙の特性により自分を要求しなければならず,常人の基準で自分を 要求してはならない。あなたは「返本帰真」にしようと思えば,あなたは修煉して上がろ うと思えば,あなたはこの基準に依ってしなければならない。一人の人として,宇宙『真 善 忍』という特性に順応できれば,それで始めて良い人である;この特性に背離して行 く人なら,それは本当の悪い人である。勤め先に於いて,社会に於いて,ある人はあなた が悪いと言うかも知れないが,あなたは必ずしも本当に悪いのではない;ある人はあなた が良いと言うが,あなたは必ずしも本当に良いのではない。一人の修煉者として,この特 性に同化すれば,あなたは一人の得道者である,取りも直さずこのような簡単な理である 。

 道家は『真 善 忍』を修煉しているが,重点として『真』を修めている。そのため道家 は「修真養性」を講じ,真の話を言い,真の事をやり,真人に成り,返本帰真にし,最後 に真人に修成する。しかし『忍』もあり,『善』もあり,重点を『真』に置いて修めてい る。佛家は重点を『真 善 忍』の善に置いて修めている。善を修めれば大慈悲心を修め出 せるので,慈悲心が出ると,衆生誰も苦しいと見ているから,一つの願望を立て,普度衆 生をしようと思う。しかし『真』もあり,『忍』もあり,重点を『善』に置いて修めてい る。我々の『法輪大法』という法門は宇宙の最高基準−−『真 善 忍』に基づいて同時に 修めるので,我々の煉る功はとても大きい。