広州で全国一部分の指導站站長に対する講話
(1994年12月27日)

 われわれの指導站は前後して各地区で自発的に組織して来た。 多くの人は地方で学習班に参加して,この功法はとても良いと 感じて,この功法を当地の人々に伝えたいと思い,公園で進ん で功を教えたり或いは他方式を以て功を伝えて,法輪大法の影 響がますます大きくなるようにした。皆は多くの事をした,多 くの貢献を作り上げた。要するに,一言言えば,より多くの人 に法を得させ,より多くの人に向上を得させ,より多くの人に 受益させたいと思ったのだ,皆は皆良いことをしているのだ。 指導站は前後してかなり多く建てられた,将来まだ更に多くな るはずだ,これで如何に管理するかの問題に直面している,将 来一つの目立つ問題にもなるのだ,だから,われわれは適時に 皆を在席させて話したり、述べたりする。

 われわれの指導站の管理について,過去からずっと明文の規 定があるのである。皆が知っているように,法輪大法を学びに 来ることにおいて,何かの行政手段を取って,無理に人に学ば せることや,誰かに官に封じ希望を承諾し,いくらお金を稼が せるかといったことなどが,われわれには無い。皆は全く志願 に出るのだ,皆この法を学びたい,より多くの人に受益させた いので,皆は初めて熱心にこの仕事をやるのだ。つまり,何の 付加条件もない,しかもこの仕事をしたら皆かなり苦労し,た だ皆のためにいい事をし,皆のために払いをするだけで,報い はない。もちろん,報いは無いと言うのは,それは常人の角度 に立って言ったのだ,私に言わせれば大法を広めることは功徳 無量のことだ。われわれは以前既に何回も規定をした,本の中 にも指導站を建てる条件がある。われわれが組織し建てた指導 站は,社会上のいずれかの部門のようではなく,公司或いは一 つの行政機関のようでもない,われわれはこの方法を取らない のだ,これは我々の最も目立つ特徴だ。何故これをしないのか? これは人に何かの事業をやりたいということを助長させやすく, この心を起こしやすいからだ。それに,まだ幾らかの問題に及 ぶ,若しわれわれの指導站は一つの単位のようにやったら,そ の中では多くの問題に及ぶのだ。例えば住宅は金が要る,電話 を引くには金が要る,水、電気皆金が要る,それではこの資金 はどこから来るだろうか?皆は皆義務で功を教えている,われ われは何の会費も取らない,皆の金をも取らない,全く自分か ら進んでしたのだ,だからわれわれはこれを行なわないのだ, 本当に修煉するにはこれらを行ってはいけない。釈迦牟尼は当 年法を伝えた時,人にこの心を起こさせないために,彼は弟子 を率いて出家して,寺院の中に行って修煉した,彼はこういう ふうに行ったのだ。しかしある一部の他の宗教は,例えば西方 の一部の宗教はこういうふうにはしていない。こういうふうに していないが,実質には名や,利を,淡泊に見ろというような 問題にも言い及んだ。つまり,我々は真に修煉したいのなら, 向上したいのなら,このいい事をしたいのなら,我々はそれを 経済実体として行ってはいけない,単位のように行ってもいけ ない,皆はくれぐれもこの事に注意しなければならない。

 尚又,この中にはまだ一つの問題がある,君が若し金を儲け, それを以て金を稼ぐなら,それでは全くこの法を破壊したとい うことだ,法は人を度すものであるからで,利用して経営した り、商業をやったりしてはいけない。それに,以前多くの気功 師は治療をやったり,諮問をやったりして,金も少し稼ぐ,他 の功派の中でこういうふうにしているのはある。またあるもの は公開的に金がなければ道を養うことができないと言った,実 際は皆謬論だ。中国古代の修煉人は皆かなり金を持っていたよ うで,その実は彼らは赤貧洗うが如し。もちろん,われわれは 君が金を持っていることに反対しない,この問題は私が既に言っ た。君は仕事で,本職の仕事をよくして,いくらか多く金を稼 いでもいいが,これは常人の中の事だ。われわれは修煉の過程 中において如何にこの法を保護し,如何にこの法を変形させな いようにし,歩き偏らないようにするかということなのだ。今 日皆がこのように学ぶことだけではなく,将来歴史においてか なり長い時間が残るはずだ。皆もこの法を学んで,この法に従っ ており,若し我々が初めからそれをかなりうまくできなければ, 初めから歩き偏ったら,それでは将来面目は全く違うようにな る。皆が知っているように,私のところでは,私個人のこの方 面では,できるだけそれをよくして,如何なる良くない事,良 くない現象をも発生させない,将来各地の指導站も同じだ,君 がしたこれらの事も法輪功を代表している,ある所から言えば 法輪功の形象の体現でもある。皆は絶対自身の形象に注意しな ければならない,仕事の方法に注意しなければならない,法輪 功に泥を塗ってはいけない。若し単位を造ったり,金を稼いだ りしたら,私に言わせればこれはもう何の法でもないのだ。こ の中で金や,物や,利の問題に及ぶと,君は多く儲けたとか, 私が儲けたのは少ないとか,私が行ったことは多いから多少と も補償があるべきだとか,如何に清算するかとか,社会では君 に分担させるとか,等々が出現するはずだ。私は,若し本当に この形式をやって行くなら,それはもう修煉ではない,それは 全く一つの会社になったのだ,これは絶対だめなのだ。

 我々は今日この法を伝え出した,伝え出すことができるのは, 我々はそれをよく把握でき,それを変形させず,偏らせないよ うにすることができるからだ。若しわれわれが初めからよくで きなかったら,後人がどの程度までして行くのか分からないだ ろう。以前,李洪志がいた場合行ったのはどうであるか,今日 もそういうふうにやろう。私がいる場合,ある一部の事は皆の ために正すことができる;いない場合,とんでもない形でして しまうかも知れない。だから初めから我々はこうするように厳 しく要求し,実体を行なわない。われわれの功派管理は,指導 站は貯金せず,全く義務指導である。我々も団体、派閥を造ら ない,ただ皆は義務で大衆、より多くの人のために少しいい事 をするだけだ。

 人が修煉したいなら我々は彼を指導する,我々自身も一人の 修煉人だ,このような原則だ。だから,指導站を建てるには皆 は家や,電話や,あれこれが欲しいと思うべきではない,こう してはいけない。われわれの一部の指導站は現有の条件を利用 し,或いは家で,或いは自分のオフィスを利用して,皆かなり よくできる。どんな条件があるか,われわれが行ったのはどう だかこれはかまわない,肝心なのは法に対する理解と法に対す る認識にある,修煉して行くように堅持できるかどうか,これ は肝心だ。如何に自分を高めるか、これこそ主要なことだ,他 の一切の事は全てその次に重要なことなのだ。もちろん,仕事 の展開に便利であるために,ある人は我々にいくらか便利な条 件を提供してくれるが,これは問題はないと私は言う。例えば, 我々の学員の中で,ある人はどこかの機関で,或いは企業で, 或いは他の単位では一人の指導幹部であり,或いは企業の役職 にある,便利な条件があって,われわれに一つの場所を提供し て,皆は一堂に座って会を開く,こうなら問題はないと私は言 う,それは金の問題に及ぶことはない。各業種にもわれわれの 学員がいるから,これらの事を解決でき,しかも人は進んでこ のようにしたく思っていて,法輪功のためにいささかの義務を 尽くし,いささかの貢献を作り上げることができ,非常に嬉し く思っていた。各地にもこのような事が出現した,法輪功のた めに場所を提供し,便利な条件を提供する,皆はこのような事 をすることにおいてとても積極的だ。

 なおまた,各地の指導站は学員の煉功のために,前後して若 干の小新聞ぐらいのものを作った,例えば『法輪大法は長春に あり』,『法輪大法は北京にあり』,『法輪大法は武漢にあり』 ,等々。この形式もかなりいいと私は思う,それは新聞といっ たものでもない,宣伝ビラというものでもない,皆われわれの 学員の内部の体得だ。皆にさせる必要がある何らかの事は,適 時に皆に伝達する。しかし往々にして彼らはこの事をするに当 たって非常に簡単に行う,一、二枚の紙,或いはもう少しよく 印刷する等のこと,これはどうでもいい。それではこの経費は 如何に解決するか?この中では金の問題に及ぶのだ。私の知っ ているところでは,凡そこれらのものを行った地区では皆この ような方法を取っている:一つは学員の中では一部のものは商 いをしている,現在は少なくない人は会社をやっている;或い は勤め先でこの仕事をしている,或いは行政管理者であって, このような便利な条件がある,勤め先に印刷工場がある,この ような便利な条件を利用してやる;或いは企業家が便利な条件 を提供して,君のためにこの事をしてくれる。我々の指導員も 金に接触しない,彼は我々を助けてやる。我々はただ原稿を提 供するだけで,仕上げたら我々は配る,皆こういうふうにして きたのだ,私はこうしてもいいと思う。ある人はこの事をしら なければならないと見た,定期的にする,いけないとすぐ方法 を考える。われわれは不定期のことをしてもいい,条件があれ ば定期のものをしてもいい。条件がないのなら無理にしなくて いい,このような原則であるのだ。

 指導站の管理について,既に明文の規定がある,皆はこの規 定に基づいて行ってきたのである。指導站を創立することにも 条件があるのだ,皆にも言った,新しい指導站を北京或いは若 干の大きい指導站に報告するように,特に省或いは大都市の指 導站,その行政範囲以内の,例えば貴陽市指導站は,貴州省を 引き受けるべきで,各県の指導站は適時に彼らに連絡すべきだ。 もし一つ一つで北京に連絡するとしたら,このような便利な条 件があるとは限らない。大都市付近の各県に対しても管理すべ きであり,彼らが仕事を展開するのに便利である,皆は法輪功 に責任を負おうことに基づくべきだ,君は管理しなければ,彼 は勝手に行動し,精神をも会得せず,実際偏って行ったら,こ れは法輪功に対して一つの損失だ。なおまた武漢のような大き い指導站は,付近の幾つかの省を全部管理しているが,それも いいと私は思う,彼らの経験は比較的に多く,時間が長くなれ ば私も安心する,彼らが法に対する理解は比較的に良く,仕事 の展開も比較的に良く,基本的にこのような状況にある。我々 の指導站は絶対に偏向してはいけない。

 ある人はメモを出して指導站の人員について如何に配置する のか?と聞いた,人員は皆自発的なのだ。しかし一つの規定が ある:指導站の站長は私がやった学習班に参加したことがある ものでなければならない。聴いたことが多ければ多いほど会得 は深く,聴いたことは少ないなら往々にして会得は深くない, ひいてはある一部のものはどういうわけかまだ分かっておらず, それで偏る方へ率いやすい。もちろん下の方で多く聴き、多く 読み、多く学ぶなら豊富にでき,より一層認識することもでき る。人を選ぶ時,熱心な,まじめな,よこしまなことや悪だく みをしないものを選ばなければならない。

 なおまた,法輪功の修煉は一般の修煉ではない,彼は高層次 上の修煉だ。この事をするのはかなり難しい,一人の人のため に身体を浄化し,真正の心性水準を全部向上させるのは非常に 難しい,私は多くの功を打ち出して彼らのために身体を浄化し, 身体をきれいに整理しなければならない,彼らのために多くの ものを下さなければならない,まだ法を透徹に講じなければな らない,この事はとても難しい。私はかなり短い時間の内にこ れらのことを全部成し遂げることができる。彼らが若し自分で 修煉するなら,何十年か経って始めてこの一歩に到達できる, 他の一般の師父でも一、二年の内に其れを到達させることはと ても難しい。真に一人をとることは容易くないのだ,若し一旦 一人の人を壊すならそれはただ一瞬間のことだ,非常に容易だ, だからわれわれは一貫してこう要求するのだ。

 このような一つの規定がある:各地気功協会で職に就く人な らば,彼にわれわれの指導站の仕事を担当させないこと。しか し一つの特殊な情況があった,例えば一人の指導站站長があっ て,この人は非常に良く,彼は気功協会を脱退して指導站の仕 事をやりに来たいと思った。彼のこの気功協会は半麻痺の状態 にあり,彼本人も非常にいいし,把握もできるからだ,これは 唯一の一つの極めて特殊な例だ。他の地区の気功協会の人はわ れわれのこの法に対して理解が深くなく,彼らの頭の中にある のは,主としては如何に金を稼ぐかとか,各功派の管理だ,元 の枠は彼の頭脳の中においてはかなり深い。こうして,彼がわ れわれを一般の気功として管理すれば我々の学員を壊してしま うかも知れない,だから我々は従来気功科研会の人はわれわれ の指導站の仕事を担任してはいけないと提出している。我々の 指導站の站長は皆われわれの研究会から批准したのだ,大多数 は皆私が自ら任命し、指定したのだ,これは我々大法が逸れな いことに対して直接に良い所が有る。さもなければ,一般の気 功に基づいて管理するなら,皆考えて見るがいい,そこにはで たらめな資料が沢山ある,少し資料を持って売るなら,彼は大 変嬉しく思う,これは金を稼ぐ良い機会だ,沢山の金を稼ぐこ とができる,これを少し取ろう,あれを少し取ろう。彼は金を 稼ぐ目的に出るのだ,故意に我々の功法を破壊することではな い,しかしそれは破壊の作用をした。その中のどんなでたらめ なものでも皆我々の学員の邪魔するはずだ。ある一部の法に対 する理解が深くない人は容易に歩き偏ってしまう。更にでたら めな気功の本を持って来て売る,他の功派はこうするのだ。

 今班を行ないに来る気功師がいたら,人々は皆冷静に考える。 以前のように盲目ではない,気功師が班を行ないに来れば参加 する。今皆は皆非常に冷静で,本物か偽物か,観察し,過去の ようではない,だから気功師が班を行うには非常に困難だ。彼 は一旦生徒を募集できないとなると,我々の学員が参加するよ うに引っ張る,彼は班をしあげて,金を稼いだが,我々の学員 を壊した。我々はこんなにも大きな事をしてきたのに,我々は こんなにも骨が折れたのに,一瞬で我々の学員を壊した。もち ろんある一部の学員については君は彼に高すぎる要求をしては いけない,彼は畢竟法を学んだばかりで,法に対する理解はそ んなに深いとはかぎらない,知らぬ間に自分を壊した。我々は 過去こんな規定がある:凡そ各地の省市でこのようなことをす る指導站站長があれば全部取り換え,絶対残さない。

 各地の指導站の人,煉功場所の指導員に我々の学員をひきい て他の気功師の報告を聴きに行くもの,我々の学員の中で他の 気功の本を売って,我々の学員を引っ張ってよこしまな事や悪 巧みをやるものがあるなら,このような指導員は一人見つけた ら即ち一人取り換える,絶対残さない,残したら後の災いはき りがない。これは既に重大に法を破壊したことなのだ,内部か ら法を破壊することは,それは絶対許さない,これは絶対容赦 しない,一人有れば一人取り換えるということだ。

 われわれの原則は緩め管理だが,煉功この問題においては少 しもいい加減にはしない,いかなる人も破壊してはならない。 我々は組織形式上において非常に緩めだ,君が煉功に参加した いなら参加すればいい,君が煉功に参加したくないなら君は去っ てもいい。君が来たのなら我々は君に責任を持って,君にどう するか教える。君が学びたくないなら,君のその心は誰が引き 留めることができるか?君をここに引き留めたとしても君がよ く学ばず,君は何でも言いたいことを言い,何でもでたらめに するなら,君は内部から我々の法を瓦解し、破壊するのだ,我 々はこのようなことをするのを許さない。学びたい者は自分で 学ぶ,法を認識できたら彼が修める,人の心が善に向かうのは 自覚なのだ,誰かが強迫することではない,君という人は見上 げるものにならなければならない,こうしなくてはいけないと 言った。しかし彼がどうしてもしたくないなら,君は彼に対し て何か方法があるか?人の言うことによればその人が修めたく ないならば,仏すらもどうにもしようがない,彼が自発的にす るのでなければならない,強いてはいけない。

 また一つのことがある,我々の多くの学員は,その数が相当 なもので,黙って本を読んでいて,毎日も見ている,ひいては 問題にぶつかるたびにも見ている。この一点から見れば,甚だ しきに至ってはわれわれの指導員よりもよくできる,だから各 指導站は皆を組織して多く法を学ぶべきだ,特に各煉功場所の 指導員は率先垂範の作用をすべきだ。我々は指導員に要求があ るのだ(学員は君が学びたいなら学んでいい),一に専念して 法輪功を修煉するものでなければならない,そうでなければこ の一群の学員は全部彼によって誤ったものとさせられてしまう。 一人の指導員になった以上よく行うべきだ,われわれは指導員 の法に対する理解をより一層深めさせる,彼らに平時多く本を 見させる。もちろん,多くの指導員はとても真面目で,この仕 事をとてもしたい思っている,しかし往々にして彼の文化水準 には限りが有る,ひいては本を見ることも困難だ,年もかなり 取っている,これはかまわない,彼は皆を組織して学んでもい い。皆を組織して学ぶ時,本を念じる時,彼は聴くことができ るではないか?皆が体得を語る時彼も皆に従って一緒に向上す る。皆は学びさえすれば,誰でも向上することができる。法を 学ぶことと動作を煉ることを結び付けて,同時に展開すべきだ。

 今多くの地区では動作を煉ることはかなりよく組織してきた が,往々にして法に対する学習を軽視した。学員が問題を提出 した時,指導員は解決できず,はっきり言うこともできない, ただ先生に聞くことを待っているだけだ,先生がどこに行った か捜す。実はある問題は本の中で皆講じた,どうしてもだめな ら皆を組織して録音を聴く,多く聴いてもいい,これらの問題 は本の中に皆解答がある,《中国法輪功》修訂本の中では皆概 括的に講じた,真面目に学びに行きさえすれば全部解決できる。 長春では法を学ぶ盛り上がりを展開してから,学員は私に会っ ても聞くことはない,私に会ってももう聞かないのだ。若しそ うでなければ私が出掛けると誰もが私を知っている,故郷なの だから,街を歩くと法を学ぶ人は多い,私を知っている人はか なり多い,多くの人はあれこれ聞くはずだ。今会ったらただ先 生今日はと挨拶するだけで,何も言うことはない,聞くことは 何もないからだ。本の暗記を展開してから,学員は事を行って から対照するのではなくて,事前に彼はもうするべきかどうか 知っているのだ,これは非常にいい。皆は法の学びを煉功のな くてはならないものとして学んでおり,しかももっと重要な事 だと思っている。各地も長春のように法を学ぶべきで,一つの 法を学ぶ盛り上がりを展開して,多くの問題は容易に解決する ようになる,自分でもこれらの問題を解決できる。それに,指 導員を選ぶ時,君との関係が悪くないとか,交情やら,感情か ら出発することを絶対顧慮してはいけない;或いは一旦指導員 を決めたあとで再び取り換えるとしたら取り換えづらいと。そ れはいけない,法に責任を持たなればならない,絶対これらの 事に注意しなければならない。標準に符合していいものならさ せる;いけないものなら,寧ろ臨時のものを捜してさせるとし ても,どうにかこうにか間に合わせることはしない。私は過去 このような問題を講じたことがある,あの寺院の中の修行する 僧,その廟の長は,住持、方丈と称される,彼は専門修行のも のだ。我々は常人の社会の中で修めている,我々のこの法もす ばらしい,高層次上へと修めることができる,君の煉功站の指 導員は廟の中の方丈、住持と何の区別が有るか?皆に対して要 求が高いということではない,確かに功徳無量のことなのだ。 煉功場所でどれくらい修め出せるか,ただ一人修め出したとし ても,この指導員も功徳無量だ。これは一つのかなり厳粛なこ とだ,この事をよく行うべきだ。我々は最も方便な条件を採用 して修煉し,皆に向上させるが,方便な条件は法に対していい 加減な無責任なことをしてはいけない。将来また専門修煉の人 が出現するかも知れない,これは皆可能なことだ,若干の条件 を提供すべきだ。

 各地区ではこの間の煉功を通じて,少なくない問題を反映し て来たかも知れない,皆は提出してもいい。煉功において,仕 事において,ある事をどうするべきか分からないなら,皆は出 してもいい,私が皆に解答する。

 法輪功学員が特異功能の演出に参加する問題ですが。

 これは私はまだ見ていない,こうすることは絶対禁止するの だ,絶対いけない。彼は専一に法輪功を修煉するものか?以前 は?(挿話:この人は他の功法を学んだ,しかし彼の功は上が れない。法輪功を煉ってから功が上がったのだ,彼は“三花聚 頂”に至ったと言った)われわれはこれらの人に教育を行うべ きだ,法輪功を煉りたいなら,法輪功の要求に基づいて行って 行く。彼は根っから法輪功の要求の通り行って行かなければな らない,根っから法輪功の煉功人の標準に符合しない,しかも この人には憑依があることはとても可能だ。彼自身がこうする のがいいと思って,自分で求める時,私の法身は全然彼をかま わない,このような事だろう。このような事はもう一つの角度 から我々の法を破壊するのだ,これは絶対いけない。この人が 本当に修煉を堅持できれば,我々の標準の通りにしなければい けない,そうでないなら,我々は彼に如何なる条件をも提供し てはいけない。法輪功の修煉者ではない。他の功法を練る人は 法を学びに来たいなら学びに来ればいい,縁によるものだ。人 を学びに来させ,何人かの人を連れて学びに来る;或いは人は 学びたくないが,皆がみな学びに来るから後について学びに来 る,こういうことは何の良いこともないと私は思う。ある人は 度しても度しなくてもいい,われわれは縁に決まるのだ。彼が どれくらいの人を連れて来たかを見ないで,これらの人は法輪 功を煉ることができるかどうか,専一して煉ることができるの かどうか,すべて問題である。皆は帰ってから一つの法を学ぶ 高まりを盛り上げよう,この要求は普遍にできるのだ,皆認識 することができる,そうでなければこの問題はますます目立つ ようになるはずだ。

 我々は煉功の責任者を増加してよろしいでしょうか?

 いい,人を増加するなら,君たちは自分で選んで,更に一人 か二人配置してもいい,必ず法に対する理解が比較的いい,こ の仕事に熱心である人を選択しなければならない。

 ある学員は:私が既に三花聚頂に至ったが,八月十五日李洪 志先生は私の“法身”を持って行ったと言った。

 皆、注意するのだ!凡そこのような人は皆各種の執着心がも たらした幻覚だ。このような人は,前後して幾つかの地区でも 出現した。正に君が今言ったように,彼はかなり危険だ。彼の 言ったことは:私は既に三花聚頂に達した,私がどんなに腕が いいか,最後には私が仏だ,君たちは李洪志に付き従って学ぶ ことをやめよ,私に付いて学ぼう!ということだ,発展して行 けば,最後のはこのような問題が出現するかも知れない。この ような人にはすぐ彼に指摘してやるべきだ,彼にこれらの執着 心を放棄させなければならない,とても問題が出やすいのだ。 初めはこれらの人は私をとても尊重し,ある人は私に血書を書 いたことがある,指先を破って血書を書いて,法輪功の修煉を 最後まで修めると表明した。結局彼は“仏”になったのだ,彼 は:君は李洪志に付いて学ぶことをやめよ,君は私に付いて学 ぶように言った。彼が滑り落ち,彼自身が名利心、歓喜心を追 求し,その上魔の邪魔があるので,自分自身抜け切れない。彼 は表にはやはり法輪功をいいと言うのだが,実際は,彼の行為 は法輪功を破壊しているのだ。正に私の言った事のように,あ る人は:法輪功はいい,法輪功を学んだら何事もない,見てご 覧私がこの本を持って街を歩いて,自動車は敢えて私にぶつけ て来ないと言った。彼は法輪功を破壊しているではないか?表 面にしては法輪功を保護しているようだが,実質にしては法輪 功を破壊しているのだ。

 この間広州地区の気功科研会が行った気功研究演出に関わる 問題について。

 ある地区気功科研究会は体育委員会に従属しているのだ,体 育委員会は気功を一種の体育活動とするだけだ。大衆的な体育 活動である以上,ある時各門派の各種功法団体活動をする,正 に体操をするかのようだ。ある場合に気功活動を展開するが, 彼らは畢竟それを一種の体育活動とし,良くない事としてはい ないからだ。この類いの事は我々はしに行きたくないが,若し 彼らが本当にしようとしたら,尊重するということに出て,我 々は皆を組織して行ってもいい,体操をするように動作をして 見せる。ただし注意すべきことは,前提として我々はそれを何 かの事としてこうするのではない,受け身の場合に,気功科研 究会は我々にこういうふうにさせるのだ。我々は皆にはっきり 言うことができる,我々は団体で一、二揃いの動作を煉っただ けでも,彼らの体育活動を支持することになるのだ,特別な場 合はこうしてもいい。しかし一点を肯定しなければならない, 若しその中に他の気功師が場を組織して演技をするこの種の活 動があるなら,我々は皆参加しない。単純な,体育活動のよう な行動ならばいい,これは皆が正確に把握しなければならない。

 又一つの問題がある,今われわれの各地指導站には一種の情 況がある,皆はみな法輪功を広めている,ある地方では班を行 う形式を採用した。我々はやはり“班を行う”と言わないほう がいい,他の名詞を言える。行う時誰でもがこの法を講じられ るのではないから,無論こうしてはいけない。若し誰かがここ に立って法輪功や,如何にやるべきか講じたら,この法を講じ たら,それは彼は邪法を伝え,大法を破壊するということなの だ。法輪大法は一つしかない。若し彼が本を持って念じるなら かまわない,われわれの站長は誰かを本を持って念じるように 派遣するぐらいのことならこれはかまわないのだ

それに,皆で組織してビデオを見る,全部の授業のビデオを 指すのだ,第1課を見て,停めて功を学ぶ;明日第2課を見て, また停めてまた功を学ぶ。

 なおまた,録音を聴くことだ,1課1課というように聴く, それから専任者が動作を教える,これでは問題はない,動作は 皆が一緒に学んでもいい。われわれは今後このような形式を採 用してもよい,これは一番いい一種の形式だ。われわれは皆を 組織して団体的に功を学んでもいい,こう学ぶのはかまわない。

 それに,個々で来る人は煉功場所で直接皆に従って煉っても いい,それから本を見て、録音を聴く,このようにする。ただ し一点を保証しなければならない:われわれは断じてすべての 功を伝える活動を如何なる経営性質にしてもいけない,我々は ある条件があればそれなりのことをする,料金を取ってはいけ ない。我々は教室を借りてもよし,会議室を借りてもよし,或 いは人が多いのなら講堂を借りてもよし,こうしてもいいが, 料金を取ってはいけない。我々は既に念入りに断言しておいた, 経営実体をしてはいけない,ぜひこの一点に注意しなさい。若 し極めて特殊な情況があり,我々の学員がとても多く,法を学 ぶ人がとても多くて,どうしても大きい場所を必要とするが, 我々は借りることができない,人の講堂を使用せざるを得ない が,講堂は料金を取る必要がある,それならこの極めて特殊な 情況は,皆北京に直接連絡しなければならない。若し本当にこ の種の情況であれば,講堂を借りるだけの費用を取ってもいい, 残りは一銭も残さない。要するに,我々の手には貯金をしては いけない,指導站は貯金をしてはいけない,如何なる経済活動 をもしないこと。この問題については私は皆にもうかなり明確 に言った,とても厳粛な事であるからだ。我々のこの功派は正 道を歩むことができる,この一点においては他の功派とは根本 的な区別がある。

   上海からの話によればある班に参加したことのない法輪功の 煉功人は,皆を組織して煉功する前に:“尊師李洪志を拝して, 大法法輪功を学び,心性真善忍を修める。”と言って,念じ終 えてから煉功する;終わった後:“収定,先生有り難うござい ます。”と言う,彼は先生に対する崇拝ですと言いまいした。

 彼は班に参加したことがないか?(答え:そうです)君が言っ たこの事はとても重要だ。多くの地区の学員は,彼は本を見て 或いは個別のものは録音を聴いて,彼はとてもすばらしいと思っ ていたが,彼は如何にするか分からない,このような問題が出 現するかも知れない,他の地区では将来も出現するはずだ。皆 はぜひ注意しなさい,凡そこのような話を聴くとしたら,君が どの地区の指導站であるにも拘わらず,皆こうすべきではない, 彼に教えるこの責任がある。このようなことは往々にして法輪 功を学んだことのない人をあいまいなうちにそこに連れて行っ たことになる。実質にはこの人は学習班に参加したことがない, 彼はあまり分からない,彼はこの勢いを借りて自分をちょっと 表すことが可能なのだ。しかしこの人に対して結論を下さずに, 将来彼が学習に参加したあとで,彼はこの問題に如何に対処す るか分かるはずだ,これは確かに一つの事だ,皆は絶対この一 点に注意しなさい,どの地区でこの事が出現したと問わず,指 導站は聴いたら,彼に一番近い地区では,皆は電話或いは他の 形式を通じて彼を制止することができる,この類の事情を正さ なければならない。

 上海この所は,将来私は機会があれば行くはずだ,私がずっ と思っているからだ。

 ハルピン本站が一群の指導員を組織して長春へ学習に行った 問題について。

 ハルピンの情況はかなりいいのだ。一群の指導員を組織して 長春に行って本站の組織した一回の会得体得交流会に参加して 以後,彼らの認識もかなり高まった,各種の活動を展開した, この方面はとてもいい。長春総站は既に私にハルビンの情況を 反映した,私は知っている。ハルピンの夏はとてもいい,特に 松花江の岸辺で皆が一緒に座って本を念じるなら,それはとて もいいと私は見ている。

 大慶が先生を要請して班を行う事について。

 班を行う事については言うのをやめよう,将来私は統一的に 按排する,今要請状はかなり多い,大慶からの要請状は私は二 通見た,去年ハルピンに,大慶から人が学びに行った。

 先生の班を行ったことのない地方で法を伝える問題について。

 こうすればいい,今回広州で法を聴いた,皆は帰って統一的 に班に参加したことのない学員を捜して話しなさい。君たちは 録音しておいて皆を組織して聴かせてもいい,済南のテープも ある,とてもいい,皆を組織して団体で録音を聴いてもいい, ずっと終わりまで聴かないで,一段聴いてから停めて,自分の 理解能力に基づいて皆に話したり,講じたりする,皆は又自分 の体験を言う,心持ち生き生きと行うようにしなさい。

 賛助の問題について。

 他人がいくら金持ちであっても,いくら法輪功に賛助したく ても我々も要らない。何故か?君が貯金したのだから,それで は他の指導站も貯金してもいいではないか?すべての指導站が 皆貯金したら,将来行っている時金の問題に及ぶと,人の心が 変わる,だから我々は全然やらない。若しこの人が本当に法輪 功のために貢献を作り上げたいなら,例えば幾らか資料を買う やら,或いは我々が法を学ぶこの方面の活動を展開するやら, 彼に活動に有益である事をやらせてもいい,彼が既製のものを 作り上げれば,それでもういい。

天目が開いた指導員はどのように把握すべきでしょうか?

 天目が開いた指導員はどのように把握する?平時みなよく煉っ たものなら,彼らに言わなくていい。個別のまだ欠乏のある学 員については君は行って彼に,どこがまだ向上する必要がある, どこに問題があると教えてやる,このように彼に教えればもう いい。君が若し公開に言って:君の法輪はどれくらい大きいの だ,彼の法輪はどんな様子だ,君がこういうふうに言うと,皆 は毎日君を囲んでくる,この事ばかりだ。又ある人は自分がど れほど高く修めたかと聞くはずだ,絶対勝手に言ってはいけな い,言うとその人は執着心が起こる。この点はよく把握しなけ ればいけない。

 ある人は煉功は部門からの積極的な支持を得たと言いました。

 多くの地区で,寒冷な地区で,冬に煉功すればかなり苦しい のだ!しかしある一部の部門はかなり支持する,部門は場所を 提供する,このような例もかなり多い。われわれの影響はとて もいいからだ,学員は煉功を終えてから場所をきれいに掃除し, ひいては雪が降ってから庭をもきれいに掃除してしまう。われ われは至るところでも行動がこんなにもいいなら,人は自然に 方便な条件を提供してくれる。

 法輪功の学員が団体で会得体得を話すことについて。

 長春では一つの録画を取った,学員は話し方が非常に生き生 きとしていた,聴講した学員もかなり感動して,あるものは涙 がこぼれた。会はかなり生き生きと開かれ,雰囲気もとてもい いから,皆も非常に嬉しかった。正に君が今言ったようにこの 場では,ただ私本人だけはいないのみで,何の不足もない,正 に私が班をやるように,その場はとても強い。それは法輪功の 集結であると言ってもいい,法会と同じだ,だから効果はとて もいい。将来学員の発展が多くなったら,学員はこのように, 会得体得を話してもいい。法を学ぶことを通じて,これは人を 非常に教育する,学員は自分で功を学んで以後どれくらいの収 穫があったか話すなら,ある方面から見ればこれは我々が言う よりも生き生きとしているのだ。

   皆で会得体得の交流を話します。

 高層次上に到達して見たこれらのものは皆機縁に応じて得る のだ,層次が高まるにつれて,このものは交流してはいけない。 交流はただ我々皆が心性修煉の方面で如何に向上するかにある。 われわれは正法修煉で,複雑な環境の影響を恐れない。

 如何に法輪功指導站と当地気功協会との関係を正しくします か?

 この問題はとても重要だ。私が先程言った,原則としては当 地の気功科研究会、人体科学研究会或いは気功協会は,皆我々 の指導の仕事に参加してはいけない,我々の法輪功の站長、指 導員になってはいけない。しかし我々と彼らとの関係はよく協 調しなければならない,今中国気功科研究会には,明文規定が ある:凡そ直属功派は修煉において本派の先生により自我管理 する:地方行政において彼らの管理に帰する。しかし我々は行 政管理はない,功派管理は全く緩め管理である。我々は指導站 長を彼らの所に報告してもいい,正式的な会議があれば我々の 站長を捜して参加してもいい,これはかまわない。しかし彼ら が若し我々の学員を引いて他の事をし,我々の規定に符合しな いなら,我々は行なわない,これらの事は彼に明確に言っても いい。若し彼らが何らかの有益な活動を組織して,別の問題に 及ばず,体操をすることのように,何百人かの,大衆的な活動 なら,各功派は組織して来,幾揃いの動作をし,誰のがいいか 比べ合いをして,それから又評価をするなら,体育事業の発展 を促進することにほかならないと私は思う。体育活動なら,こ れは参加してもいい,これは問題はない。彼が若しわれわれの 功派を以て他の事をするなら,これはいけない,これは彼に明 確に言ってもいい。

 地方では寄り掛かってもいい,彼らの所に寄り掛かってもい い。実は彼らの所に寄り掛かっても何の活動もない,何の事も ない。彼らは時間になると君を呼んで,どこそこの気功師が班 をしに来る,君たちも行ったらどうか!と言うほかない。信じ ても,信じなくても,学員彼自身は掌握できる,彼らは行けと 言うが,学員自身は行かない,このような問題だけだ。人体科 学研究会は一般にあまりこの事の管理をしない。広州の法輪功 総站は既に広州市人体科学研究会に寄り掛かっている,今では なくてとっくに寄り掛かっていた。何かの活動があれば我々の 站長は参加してもいい,それは問題はない,ただこのような関 係だけだ。大連のような,多くの地区の気功科研会は我々との 関係は非常にいい,そして彼らの多くの人は皆法輪功を煉って いる。こうして我々法輪功の活動の展開、大衆の煉功に対して とても便利な条件を提供した,妨害はない,これは非常にいい。 つまり如何に彼らと関係よく協調するか,我々自分は原則をよ く掌握する,つまり法輪功に規定した原則は我々が堅持しなけ ればならないのだ。他の事情に至っては,取るに足りない些細 なことなら何も問題はない。

 如何に僧と居士に仕事を行いますか?

 時間の推移に従って,彼らは恐らく最後に取り残されて認識 に及ぶ。今から見れば基本的にこんな形式なのだ,先に法を得 るものは既に全部得た。将来を見よう!当時私が出るにあたっ て,この事は既に明確に私に言われていた,これらの人は確か にそれらの事情がもう存在していないことを彼らが知った時に なってから,帰結はないと感じるはずだ。一部分の人は還俗す るかも知れない;一部分の人は法輪功を修める,このような問 題が出現するはずだ,それは以後の事だ。居士ならたやすいこ とだ,居士は社会で往々にして気功を学んでみたい,あれこれ, 外へ捜しに行く,法輪功を捜したら学びもしたい,所詮彼は真 に会得しなければならない,私に言わせれば,法に対する理解, 真に認識できるのなら,既に接触したとしたら,彼が若し学ん で行けるなら認識できる,要は法を学ぶことで,彼を組織する ことで法を学ぶことだ。

 精神の正常でない人に対してどうすればいいでしょうか?

 この問題についてはこう把握しよう:若し彼が談話や立ち居 る振る舞いにおいて不正常なら,これは絶対法輪功を学び煉る 要求に符合しないのだ。凡そこの問題が出現した場合はそれは きっとこのような人だ:一つには自身の根基は良くないかも知 れない;或いはこの人は根基はいいが,執着心のために彼に何 かを放下できないようにさせて従って良くないものを招いた, この両方面の原因でもたらしたことにほかならない。われわれ が彼に話して,放下できれば,分かればそれで分かって来る, 分かることができなければ,われわれも仕方がない。もちろん, 最もいい強迫な方法が一つある,若しこの人がかなり悪くない, 影響面も大きいなら,我々は団体を以て彼の状態に対して,彼 に向かって本を念じて,彼に学びたいか?と聞く,彼が学びた いなら,我々は彼と一緒に本を念じる,皆は彼を囲んで本を念 じて,彼に向かって念じる。本を念じる過程中において選択的 に念じてもいい。彼の精神がはっきりしないことはそれは魔を 招き、魔を生じるこれらのことではないか,彼に向かって念じ て,彼に聴かせる,彼自分も念じて理解する。彼の主元神が上 がったら,分かったら,知ったら,それなら,彼も分かったか も知れない。若し彼が分かることができないなら,我々の力を も牽制する,この人に我々の学員に影響を与えないようにさせ るようすべきだと私は思う。凡そ頭がはっきりしない、不正常 ででたらめな話を言ったり,或いは自分をどんなに高いかと言っ たり,或いは何らかの全く不思議なあいまいな理解しがたい話 を言ったりしたら,彼は精神不正常であるのだ,この人にはきっ と問題がある。これらの人について,若し指導員であるなら, すぐ取り下げる;若し他の学員であるなら,我々は彼に言う, 若し直らないなら,我々は彼に煉らないように勧める。彼が煉 ろうとするなら,皆は誰も彼の言うことを聴かないで,誰も彼 を囲まないように。如何なる人もこれを行う場所を提供しない ように,市場がなければ,その魔は退屈するようになる。彼の 話を聴く人がなければ,彼は我々の法を破壊できない,彼も退 屈するようになるのだ。

 《文芸の窓》の問題について。

 《文芸の窓》の事について私は既に彼らにこの問題を話した。 編集者から原稿の提供者まで,彼らの目的は法輪功を破壊した いということではない,法輪功をも宣伝したいのだ,しかし彼 らは往々にして文芸の角度に立って書いて行く。文芸作品は編 集、誇張をして,随意に発揮する,任意にこうしてもいい。私 は既に彼らに言った,できるだけわれわれのこの法を理解して から書きなさい。この原稿の提供者は既に何回も聴講したこと がある,しかし彼が一回聴講をした時にとても良いと思って, とても感動していた,それで書き始めた。しかし彼は理解が深 くない,その上後の数回の聴講は,そのものを書くために聴い たので,メモを取るのに忙しかった,結局よく聴けなかった。 理解はそれほど深くなかった,初めて提供した原稿はそんなに 問題が大きくなかった。この編集者はただ何回の聴講をしただ けだ,それから勝手に編集し,勝手に手直しをする,こうして, 面目が全く変わった,仕上がったものはそんな様子になってし まった。しかし我々はに言わせれば,彼らの出発点は法輪功を 破壊したいということではないのだ,この一点は肯定である。 ただし確かに我々に一定の影響をもたらした。私はこういうふ うに思ったのだ,人の出発点はいい,人は破壊したいというこ とではない,ただ言葉の水準において,想像力の発揮において は一部は法輪功の要求に符合しないだろう。もちろん,このも のを私が見ていない,私は一冊も見ていない。我々は学員にはっ きりこの事を言っておく,それは我々の修煉の依拠としてはい けない。我々の修煉の依拠は今出版された法輪功の本であり, 正式に発行した本或いは私の講話録音である。私自分の修煉す るそれらのものを言うことになると,適当な時期になれば私は 彼を書き出すはずだ,今はこう書きたくない。今は法を伝える 時期であるからだ,書き出したら人は信じてもよし,信じなく てもよし,学員はそんなに高い認識がない時,一種の神秘やら, 功能などを追求するというものに形成するかも知れない。尚又, 理解のできない者はあなたは……ではないかと思う。

 どのように学員を組織して会得体得を話すかについて。

 われわれは選択的に,事前に彼が何を言おうとしているのか 聴いてもいい,特に我々は一部の大型の会を行うには,必ず原 稿を審査しなければならない。一つの問題に注意する,若し一 人の学員が一句の話でも話し間違えたら,我々のこの事柄はう まくできなければ問題が出るものだ。

 寄付について。

 私が先程言ったように,確かに彼の商売は非常にいい,企業 はかなり大きくできる,彼は賛助したい。若し彼が国外から来 た者で確かにかなり力量があり,彼が我々に賛助を与えようと しても,我々の当地の指導站も受け入れてはいけない。彼は一 部の力を尽くしたい,この種の情況が出現してどうすればいい か?君たちは彼を研究会と連絡させてもよく,我々は統一的に 按排し,統一的に修煉基地の建設をする。将来学員はあっちこっ ちへ走り回らなくてもいい,幾つかの地区で,北方、南方でわ れわれは幾つかの修煉基地を造る。今まで我々は寄付を一つも 収めていない。

 煉功中の動作の問題について。

 更に高い層次上へ突破する時,如何なる動作もない,全くの 打坐なのだ,君が仏家でも、道家でも,皆打坐をするのだ。そ れは完全に自動的な功の形成を形成するからだ,彼は自動的に 上へと行くものだ,君が心性を高めさえすれば彼はこういうふ うに行くのだ。絶対注意するべきことは,一旦他の動作が出現 した時,必ずそれを排斥しなければならない。学員にはっきり 言いなさい:ある者は先生が教えていたのを見た,それは偽り なのだ,私は絶対こういうふうに皆に教えるわけがない。

 手印打ちを学ぶことについて。

 あの手印打ちを学んではならない。何故か?あの手印を打つ ことは私が学員に言った話だ,私が今日言った話と同様に,君 は私のこの角度に立って私の話を話してはいけないことと同じ 道理だ。

 広東からの話では,ある人が“私は法輪功の第何世代の伝承 人です”,“李洪志とは同門です”と自称した。

 この人はひょっとしたらめちゃくちゃの憑依などであるかも 知れない。金を稼ぎたいとか,法輪功を破壊したい,皆この類 のものだ。皆にこの一点を明確に言っておく,法輪功はこの世 においてはただ私一人のみが伝えている,たとえ法輪世界の他 の一人であっても彼も敢えて下りて伝えはしない。この事情は 皆にはっきりと言っておく,つまりこの事を行うにはほかにも う人はいない,私の兄弟弟子があるなどということも不可能だ。 君たちは皆指導站の站長で,私は皆に少し高く話してもいい。 我々のこの法輪功は,他の功派のようではなく,私がこの一生 において誰かに教わったことかなどはない。皆は本の中に書い てある,私は師父ーー全覚法師等々があり,まだ何らかの法師 があるといったことを見たかも知れない。これはどういうこと か皆に私は言う:この全覚法師,又は八極真人等々,これらの 人はというと,皆が知っているように,天象がこの一歩に発展 した時,或いはこの事情は歴史のある一つの段階においてこの 大事をなそうとする時,そして一切の歴史がこの一歩にまで発 展したこと,或いは発展の進行過程中に出現した現象は,すべ てこの法の為であるのかも知れない。そうなるとこの過程中に おいてのあらゆる魔は皆この法を破壊するためのものであるの かも知れない。つまり,我々は今日この一歩まで歩いたという ことだ,私が生まれた時,開悟することは不可能だ,私に悟り 出すようにさせることも不可能だ,これは人を度することがで きないのだ,私もする方法がない。私がこの段階においては私 の以前のものを私に提示してくれ,何とかして彼の方式を以て 私に開悟させる人が必要だ,これが私の言った全覚法師だ。開 悟してから私の持っているものを知っていた,以後半閉鎖状態 にあって又他のものを学んだ,私の自分の持っているものは動 かしていない。多くの人も私が来たということを知っている, 人はこれも又私に少しでもいいものをあげたい,それも又私に 少しでもいいものをあげたい,私に彼のこの一門のものを承認 させてから,将来彼が保護されることができると希望したこと にほかならない。これらの事を言ったのだが,我々はここでは 少し高く話してもいいのだ。もちろんいいもの、悪いものには 自ずから一つの量る方法がある,いいものはきっと保護するし, 悪いものは切り除くかもしれないのだ。しかし本当にこの法輪 功を伝え,この事を行う,つまり法輪功という真正のこの一門 のものを代表する者は私だけだ,だからほかに人があるはずは ない。

 広西で指導站を成立したいのですが。

 許可する。君たちは今学ぶ人がどれくらいあるか?百人あま りだ。広州が君たちを助けて,君たちと話して,君たちを助け て本站を建て上げる。君たちはまだ日も浅いので,暫時広州に 代わって管理させてもいい,将来君たち自分が独立し,活動が できる時君たちは又分離するということにする。

法輪大法北京指導本站による録音