私が立って話せば皆ははっきり見えるだろう。
長い間皆と会っていなかった。沢山の功を伝える方面の事を すべて処理する必要があり,すべて常人がまだあまり理解しな い,あまり理解できないことなので,班をやることはそれでや めた。ここのところの間の時間はただこれらの問題を処理した だけだ,現在基本的にこれらの問題は皆しめくくりをつけてい る。本来しめくくりをつけて以後,これらの事をやり終えて以 後,私はまたあらためて姿を現し以後如何に功を伝えるかの事 について按排するつもりだった。しかし,広州でこの度やる学 習班は,当時とても慌ただしく決めたので,新聞にも載せたし, 広告にも出,他に多くの学費を取った。そのため私は途中から 出て来ざるを得ず,つまり広州で班をやる直前を借りて,先ず 北京に来て少し準備の仕事をしておく。それでこの機会を借り て皆と会うことにした,皆を見て私は非常に嬉しく思う。
過去私はこのような一言を言ったことがある:現在の人の道 徳水準は既にかなり低い,各業種の中で一塊の浄土を非常に捜 しにくいと私は言った。しかし,ここに来ると,私はわれわれ のこの非常に祥和な場を見た,われわれ法輪大法この一塊の所 は,それは浄土だと私は敢えて言う(拍手の音)。同時に,私 もわれわれの皆が修煉した成果はとても喜ばしいことを見た, 皆は皆向上を要求し善に向かう心を持っている,非常に喜ばし い。だからこの雰囲気とわれわれのこの心の状態とは全く同じ なのだ,言い換えれば,大法をむだ学びにしておらず,皆一定 の成果を取り上げた。私もこの大法をむだに伝えてはいない, これは私が喜んで安心するに値することだ。私が当初北京へ法 を講じ功を伝えに来たばかりの時,第一の学習班は今同じ位の 人しかいなかった。しかし,われわれはしばらくの時間を経て, 今まで僅か二年間だが,実際私が正式にこの法を伝えて一年に も過ぎない,最初の時はかなり低い気功形式で法を伝えたのだ。 われわれは今日,ただ北京この所だけで,指導員が既にこんな に多くにまで達することができた,われわれのこの大法は既に より多くの善良の人々に認識されていることを証明している, この法の中で向上を得,自己を修煉することができて,これは 非常に喜ばしいことだ。現在具体的にわれわれ法輪大法を修煉 する人はどれくらいいるか統計しても,非常に統計しにくい, 人が人に伝えることは,数え切れないほどだ。ある所は一つの 県或いは一つの都市に一人か二人が学んだが,結局発展して千 人以上にも達した。沢山の地区もこのような形勢で,発展は非 常に速い。
何故こうなるのだろうか?私が言ったように,われわれ法輪 大法は即ち人の心性を修煉し,人に道徳水準を高めるように要 求するからだ。われわれが修煉して何故功が長じて上がれない もの根本原因をも指し出した,この問題まで指し示した,だか らわれわれは実質的な問題に話し及んだ。過去私は言ったこと がある,ある人は会得体得の中で私に語り,先生のこの法が伝 え出されてから,われわれの社会の精神文明の建設に対してと ても有益であると言う。もちろん私は已に話した,主な目的は まだこれではない,私はこの法を人々に残したいのだ,彼を伝 え出してもっと多い人に受益させ,本当に向上を得させること ができる。われわれの仏家の言葉で言えば,つまり本当に昇華 し上がって,圓満を得ることができるということだ。しかし, 彼は必然としてこのような一つの結果をもたらし,人の道徳水 準に向上を得させる。われわれのこの揃いの功法の要求につい ては,私に言わせればわれわれが実際の所を指し,人に心性の 修煉を重視するように要求するからだ。何故多くの人は,それ に多くの僧を含め,専門修煉する道士も同じで,彼は既に如何 に向上するか分からなくなったのだ,彼はただ形式上のものを 重視するだけで,実質のものを重視しようとしない。
人の心性は若し昇華し上がらないなら,それは根っから向上 を得ることができないと私は言う,この宇宙の特性は,それは 心性が高くないのに昇華し上がることを許さないからだ。もし 人がこのような一つの程度に達することができれば,即ち不同 な程度において向上を得たのだ,私に言わせればこの人は圓満 ではなくても,彼は社会に対して有益なのだ,彼は明々白々と 悪い事をやるはずはない,彼が悪い事をやれば彼自身にどんな 相当良くない結果をもたらすか知っている。こうして彼は社会 精神文明の建設に対し,人類の道徳水準に対して,皆相応の向 上がある。この一点は絶対なのだ。われわれがこの功を伝える には人に責任を持ち,社会に責任を持つことにも基づくので, われわれもこの一点が出来た,大衆の中で、修煉者の中で生じ た影響はやはり比較的にいいのだ。われわれもずっとこの法の 要求を厳守してこのように行って行くのだ,われわれのこの功 法は行き方に偏りもない,ずっとこのような一つの純潔な、純 粋清浄な修煉状態を保持している。
われわれの現在のこの形勢によれば,将来私はこの功はもっ と大きく伝えられると思う。近い内,来年だろう,国外で功を 伝えることが少し多くなるかも知れない,こうしてわれわれの 国家で影響を生じただけでなく,実は国外で影響もかなり大き い。国外から帰って来た人は私に述べたことがある,彼らは米 国でのある料理屋でご飯を食べた時,その料理屋の中に法輪功 情況の案内が掛けてあることを見たと言った,彼は不思議に思っ て,それで人に聞いた。これはわれわれが知らず,まだ掌握し ていない情況だ,発展の勢いはやはり非常に速いかも知れない。 根本原因はわれわれが人の心性の向上を重視したからだけだ, 社会に対してもよし,不同の階層にある人であってもよし,不 同の考え方がある人であってもよし,皆法輪大法を受けること ができる。これは今私が言ったことだ,ただ簡単に述べただけ だ。つまりわれわれ法輪大法は目下存在しているこのような一 つの発展情況である。
これは指導員会議であるから,私はこの方面の事を述べよう とする。各地の法輪大法の発展情況から見れば,皆不同の長所 があり,少なくない経験をも総括し,大法の学習に対して,修 煉の中で少なくないよい経験もあった。この間の時間は私は家 におり,ずっと長春におる為に,長春の情況に対する掌握は比 較的に多い方だ,例えば,今長春では一つの法を学ぶブームが 引き起こされた,どのような法を学ぶブームだろうか?いま他 の地区では,動作を煉ることを非常に重要なこととする。もち ろんそれは非常に重要なのだ,性命双修の功法には,無論少な くてはいけないのだ。しかし長春では,彼らはこの法をもっと 重要な位置に置いて学んでいる。だから彼らは毎日功を煉り終 えてから,そこに座って本を念じ始め、法を学び始めることを 堅持している。学び終えてから皆はまだ討論をし,段を追って 討論をする。その後,彼らは本を暗記するようにまで発展した, 彼らは本当にに素晴らしいものだと感じた(もちろんこれは学 員が言った言葉で,これは私が言ったのではない),過去多く の経書は随分明確に言っていない,皆かなり曖昧に言っている のに,人々も皆それを暗記できた。もちろんまだ他の話を言っ ていた。私はただその意味を述べる,こんなにいいものはわれ われは何故彼を暗記しないのか?何時でもわれわれが常人の中 でいい人になり,向上できるよう要求する,あなたが暗記でき ればもっといいではないか?何時いかなる時でも対照があると 言っていた。こうして本を暗記するブームを引き起こした。
現在長春では本を暗記している人は一万人以上ある,彼らは いま法を学んで一つの何の状況を形成しているのだろうか?つ まりそこに座って学び始める,本も要らない,彼が初めから本 を暗誦し,止めて,もう一人は続けて暗誦する,少しの間違え もない,一字でも間違えないように暗誦する。それから君が一 段を暗誦したり,彼が一段を暗誦したりする,このように続け て暗誦する。その後又本を写すことにまで発展した。若し一字 でも写し間違えたら,全部改めてやる,全部改めて写す。目的 は何だろうか?即ち法に対する理解と認識を深めることだ,こ うして学員の向上に対しとてもためになるのだ。彼は既に思想 の中にそんなに深い印象があったからだ,彼は行動の中におい て何かの事をやる時,彼は皆煉功人の標準により自己を要求す ることができる,確かに違うのだ。
以前私はこのようにわれわれの学員に要求しなかった。ただ いま言ったように,各地でも幾らかの他の経験を総括して皆か なりいい。私も長春指導站に言った,私は君たちの経験を全国 へ押し広めるべきだと言った。これらの学員はこのように法を 学んで以来向上は随分速い,層次の向上も随分速い,それは必 然と言える。われわれの多くの人は,われわれが功を煉るし, 在席の皆はみな指導員であるので,私は深く話すことができる, それは問題はない。私の本の中の一つ一つの字は,浅い層次に おいて見れば一つの法輪である;深い層次において見ればそれ は私の法身である,偏旁部首でさえ単独なのだ,君の口を経て 念じ出した時,それも違うのだ。多くの人は既にかなり悪くな い功を修煉し出した,念じ出した字も形象があるのだ,口から 出たものは皆法輪だ。つまりこの本は一般の本ではない,もち ろん層次が足りない者はやはりだめなのだ。君に本を念じ法を 学ぶようにさせる自身こそ向上しているのだ,われわれが心性 修煉に重点を置くからだ,理性から彼を認識する自身も向上な のである。
われわれは性命双修の功法であり,動作そのものは主に本体 を変えることである,つまりわれわれの肉身と各空間に存在し ているその物質身体の変化形式を変えることだ,主としてはこ の意義だ。まだ一部の術類のものがある。真に向上を得ようと するには,私に言わせればそれは法において向上しなければな らない。若しわれわれの心性が上がれないなら,法においては 向上を得ることができない,その他は皆机上の空論だ。何故こ う言うのか?君には層次がなく,心性が上がっていないから, 層次の高低を決定するこの功は無い。心性修煉がなければ功は ない,この能量の加持がなければ,君が君の本体を変えるには 如何に変えるのか?それでは一番肝心要のものを欠いたのだ。 この種の能量による加持がなければ,君は何も変えられない, だから法を学ぶことは極めて重要なのだ。私の考えでは,修煉 の人は多く本を読むべきだ,きっと皆に対する向上は随分速い。 (差し挟む言葉:先生、大変お疲れさまです,お座りになって お話し願います,少し多くお話しいただきたいですと彼らは言っ た)私にもっと多く講じさせたいようだ。(熱烈な拍手の音)
先程主としてはわれわれ法輪大法の発展形式を述べた。『法 輪功』という名詞はまだわれわれが初期北京で功を伝えた時か らの呼び方だ。私が言ったように,気功は現代人が造り出した 一種の名詞で,実質にしては気功は即ち一種の修煉だ。常人の 中で普及しているのは,気功の最低形式上のものにしか過ぎな い。ただ人体を変えて煉功に向かっていくことができたばかり だ,初期段階のものに過ぎないのだ,それを伝え出した,実質 にしてはそれは即ち修煉だ。われわれの功法は直接高層次で伝 えたのだ。こんなにも多年にわたる気功の普及の中で,既に人 々のために一つの気功に対しては初歩的な認識がある基礎を築 いたので,それらのものを再び言う必要はないのだ。われわれ は初めから高層次上で修煉という問題を言ったのだ,われわれ が将来再びそれを気功と言いなすことのないように。
われわれのこの法輪功は,もちろん認識されていない時君が こういうふうに呼んでも,かまわない。しかし私はわれわれは 本来法輪修煉法,法輪修煉であり,或いは法輪修煉大法と呼ぶ のだと思う。この中で言ったのは一つの問題で,このような名 詞の呼び方だろう。私も一つの問題を連想した,つまりわれわ れの多くの学員は,黙っていいことをやるということだ。社会 で,他の環境の中で,仕事の中で,かなり多くのいいことをやっ た,名も残さず報いを求めない,例は非常に多い,この一点は 私も知っている,君が言わなくても私も知っている。われわれ が名を残さないことはそれは一つのいいことだ。しかし我々皆 で考えて見てわれわれこの功法は伝え出されて,現在既に一つ の社会人の心を善へ向かわせ、道徳水準を向上させているとい うような一つの現象があった。若しこの状況に達したら,法輪 大法の影響も一定の作用があるのだと私は思う。だから私は, ある一部の人はいいことをやった,人が君に聞いて:お名前は 何ですか?君は答えない,名を残さなく報いを求めない,われ われが求めたのは功徳だと思った。君は答えないでいるのはい けないと私は思う,君は:私は法輪功を修煉するものだ,或い は私は法輪大法の修煉者だと言うことができる。こうして社会 に対しての影響,われわれの大法を広めることにいいところが ある。人々は皆正法を求めに来るならそれはいいことではない か?これはやはりわりあいいいものだと私は思う。われわれの これらの影響のため,全国各地で功を学ぶ人は既に相当多くな る,この影響も既にかなり大きくなった。現在社会で人々が少 しでもいいことをやったら,人々は皆不思議に思うのだ。もち ろんある一部の人は,やはり今どうして雷鋒が出得るのか,こ の人は本当にりっぱだと思っている!われわれは彼らに明白に 教えてもかまわない。
この間の時間の中で,また幾らかの問題があった。例えばあ る一部の学員は修煉過程中に沢山の問題があって彼はいつも自 分で解けない,何故こうなるだろうか?これは何の意味か?こ れらの問題について,われわれの在席の指導員の中で,君は若 し信じなければ私がここで君に問題を出させるとしたら,君は やはり多くの学習班で学員たちが出したことがある問題を提出 するのだ。何故こうなるのだろうか?先程私が言ったように, 法に対する認識はまだ深くない,私は不同の層次のものを結び 付けながら講じていたのだ。ある人は一回本を読み終えたら, 彼はいいと思った。それからまた読んだら又新しい会得があっ た,また読んだら又新しい会得があって,その字の意味も変わっ たようだ。われわれの多くの人は皆この感覚があった,即ち本 は私が不同の層次のものを結び付けて講じたのであるからだ, 君の昇華するにつれて君には不同の認識があるはずだ,これが 法だ。君が本当に法をがっちりと学んで行けるなら,法を以て 対照すれば,君はどんな問題でも容易に解決できる,きっとこ うであるのだ,修煉の問題でさえあれば皆解くことができると 私は思う。
私の記憶では済南の学習班で講じたのは最も完壁な一回で, 多くの問題は皆講じ出した,しかし極めて個別の問題はあまり 細かく講じていなかったが,意味は全部指摘した。君が信じな ければ我々皆は本当にしっかり学ぶことができた時,どんな問 題でも解答を得ることができる。実はわれわれには沢山の問題 がある,ある人は私は何故ここが辛いか,そこが辛いかと言っ た。多くの人彼は考えてはいない,若し君は辛くないならそれ はまずいことで,私は君を管掌していないのだ。君は修煉した いから,それではやはりその話だ,あまり容易くないのだ。わ れわれは言ってもいいが,人は皆業力の存在があるのだ,どう して返すことができようか?君という人には一遍に何でも消し てやって,君を仏にならせる,君という人は特殊であるか?私 はただこの意味だけ言う。どの人でも修煉を経てはじめて向上 を得ることができるのではないのか?その修煉過程は即ち業を 消すことで,苦を嘗めることだ。君が苦を嘗めないならその業 それは消し落とせない,だから身体のその苦痛,それは必ずし も悪い事と限らない,君は耐えられたが,君が知らないだけだ。
われわれは一つの例を挙げて言おう,過去仏教の中の言った ことでは,修煉するには,沢山の苦を嘗めなければならない。 君はまだ知らないから,君がこれくらいの苦を嘗めて何だとい うのか?既に君を管掌している師父がおり,君のために沢山消 してやった。生々世々で誰かが良くない事をやったことがない か?私に言わせれば今日のこの人は,この一歩に至った時にお いて,殺生したことがない,大きい業を欠いたことがない人は 非常に捜しにくい。われわれは歴史を戻そう,その時,君がよ り悪い事をやった時,他の人はどんなに大きな難を引き受ける ことだろうか?それならば君は今日これくらいのものを引き受 けて,君は引き受けることができないのか。もちろん意味はこ こまで言ったのだが,多くの人は見えない,この中は修煉を講 じているのであって,つまり一つの悟性の問題を講じるのだ。 君は見えない,確かに見えないのだ,君は全部見えたら,もう 悪い事をしにも行かなく,修煉の問題も存在しないのだ。だか ら人がこの一歩に落ちたら,君に見させないものだ,迷いの中 に落ちることで修煉しに行かせるのだ。
まだ一つの問題がある,ここまで言った以上私もついでに言 おう。つまりわれわれの多くの人は天目が開いた,不同の層次 の中で天目が開いたのだ。しかし皆随分高い層次には達してい ない,見たものは事物の本質ではない,それの因縁関係を見ら れない。だからこの中はまだ一つの問題をもたらすことができ る,つまり彼は勝手に講じるかも知れない。彼がこう勝手に講 じると,重大な結果をもたらすようになる。その人は,私はど うしてこの程度にまで修煉したのか,どうしてこうなるのだろ うか?と言った,その実は,彼が見たのは正確ではない。一つ の例を挙げよう,多くの天目が開いた人は:君には憑依がある, 彼には憑依がある,皆憑依があると言った。私はとっくにこの ような話を言ったことがある:法輪大法の学員,われわれの本 当に修煉しようとする人には憑依がないのだ,これは私が全部 きれいに整理したと私が言った。それでは何故ある一部の人は 幾らかの動物の形象を見たか,幾らかのこのような形象,幾ば くかのあのような形象を見たのか?その実は私が皆に言おう, われわれの多くの人は主元神、副元神と憑依の存在形式を見分 けることができない。その実は彼の見たものは君の副元神の前 世或いは君の主元神の前世であるに過ぎない,これらの状況に 過ぎない。君がこのようにでたらめに言うと,他人の心理恐慌 をもたらしたではないか?君は誰かには憑依があると言ったが, その実彼は全然憑依などではない。
過去,仏教の中では六道輪廻を言う,仏教にはまだこのよう な一つの話がある:人が人に生まれ変わるのはあまりにも少な い,すべて動物が人に生まれ変わるのは比較的に多いと言った。 もちろん,この状況であるかどうか,仏教の中で言ったのだ, 私はこの例を挙げまでで,ただこの意味を言うだけだ。もちろ ん皆も悲観しないようにしなさい,その生々世々のものは何で あるか誰か知っているのか?今日は指導員の会だ,授業を聴い たことのない人は若し信じなければ君は物語りとして聴いても いい。過去の話によれば,人はあっちから来る時皆動物になり たい,彼には複雑な社会関係はない,自在に生きられるという。 動物になりたいということでもそれほど容易くないのだ,比べ て見れば人になるのはやはり比較的に容易い,人は苦を嘗めな ければならない,即ちこの意味だ。しかし人は苦しいからこそ, 人は修煉できる,他のものは修煉できないのだ,修煉し上がっ たとしても邪法だ,彼が高まるのは許されない。だから我々の 今後天目が開いた者は,絶対この問題に注意すべきだ,でたら めに言ってはいけない,君は正確に見られない。それにある一 部の事は君が感応したが,君のその感応の信号はどこから来た のか?魔が君に伝達したのかも知れない,だから決してこれら に執着してはいけない。
われわれの学員も天目が開いた人を高いと,層次が高いと見 てはいけない。これらのものを決めるのは天目層次の開きがい かがかによらないのだ,人の修煉の層次によって開くことでは ない。君は開かないかも知れない,君は彼よりずっと高い,こ れはあまりにも普遍なのだ,この現象はまだ個別のことではな い。われわれは一人の人の修煉が良いか悪いかを見るには,そ れは一人の人の心性の高低,法に対する理解程度を見るのだ。 ある人は先生がいないとしたら或いは先生が功を伝え終えたら, 皆が見えないならどうしましょうか?と言った,ある人はそれ では修められないのだと言った。修められないはずはない。皆 で考えてみよう,私がこの法を伝えるのは何のためだろうか? 釈迦牟尼はその当時在世の時,彼は文字を残していない,彼が 残したのは後人の連貫ではない記憶の中の一段一段の釈迦牟尼 の講じたそれらの事だけだ,系統的ではないのだ,皆が見た経 書は即ちこうなのだ。その時は人にこの程度を知らせることし かできなかった,だからせっかくこうしたのだ,その中にはま だ一部の釈迦牟尼の講じたものではないものが混雑している。 今日我々のこの法が述べたのは比較的に明らかだ。釈迦牟尼は 当時戒律しか残していなかった,釈迦牟尼は在世時文字を残し ていなかった。釈迦牟尼は晩年の時に,修煉過程中において, 人々に修煉を得させ,修煉し上がることができるために,多く の戒律を制定した。しかし我々は今日このようなものはない。 実際は釈迦牟尼が残した最も肝心なものは即ち戒律だ。
われ われは何を戒める必要もない,君に如何にやらせるかを規定す る必要もない。なぜか?われわれは今日法を残しておいた,こ の法は君に如何にするべきなのか教えることができるのだ。だ から私が言うのは,私がいなくてもよし,君は私に会えなくて もよし,『法を師と為し』であるべき,ただこの法を学ぶだけ だ。君は成れるかどうか,行けるかどうか皆この法に決まって いる。仮に李洪志は今日どの学員かを悪くはないと思って,君 に裏門を開けてやって,君にも少し功をやり,君を上がらせよ うと言ったとしたら。皆は考えて見なさい,このような事は私 が法を破壊しているのに等しいではないか?皆はなんとしても 誰でも修煉しなければならない,修めなければならない,着実 に修めなければならない。もちろん,われわれの一部の人は法 輪大法に極めて特殊な貢献を作り上げた,それも修めているの だ,修煉の形式が違うだけにしか過ぎない,彼は別の一種の修 煉方法だ。実際私は長いこと言ってきたが,皆に真面目に法を 学ばせ,真面目に修煉させるためだけなのだ。
私が将来国内で功を伝える機会は多くはないだろう,だから 肝心なのは皆が如何にこの法をよく掌握するかにある。法は皆 に残してやった,実は私の目的は即ちこの法を皆に残してやる ことなのだ。私が若し永遠に誰かが修めるのを見るなら,私が 君の前にいるが,君が私の言った通りやらないなら,それは何 にもならないではないか?皆何にもならない。私は言った,私 は私の法身が君を保護できると言った。実は私は更に高い情況 を言ってはいない,まだ更に大きく言ってはいない。人は別の 空間に皆身体がある,各人その身体には一定の能量がある時皆 大きくなるはずだ。私がその所で修煉した身体は既に相当大き くなった,どの程度まで大きいのか?ある人は私に:先生がア メリカにいらっしゃったら,私は如何に煉功するのでしょうか? 先生は私を保護できますか?と聞いた。私は君を保護する法身 がいると言った。その実はまだ一層の意味がある,私の法身は 君を保護するだけではない。相当大きな空間範囲,一定の宇宙 空間範囲は,皆私のその腹を走り出てはいないのだ!君はどこ に駆けたとしても,それは皆私のここにあるではないか!つま り君はどんどん修めていいのだ。
もちろんまだ一部の魔の存在がある。何故一部の魔の存在が ありえるのか?私は言った,最近一部の問題を処理した,その 中にはこれらの事が含まれていた。皆は考えて見よ,全国各地 或いはわれわれのどこかの煉功站でもよくこのような情況が出 現して,われわれの法を破壊する。ある人は私を罵る,ある人 は法輪大法はいかに悪いかと言って,重大にわれわれの修煉を 邪魔した。しかし皆考えて見なさい,この事はというと,それ は良い事ではないのか?君の修煉の全過程にさえ一つの法に対 する根本的な認識問題,君が確固であるかどうかの問題が存在 している,ずっと君の修煉が最後の一歩に至るまでも,まだ君 が法に対して確固であるかどうかということに試練を行ってい る。この根本問題は解決しなければ,他の問題は全ていうまで もないのだ,何でもいうまでもないのだ,この問題ではないだ ろうか?君が法に対して自身すらも確固でないなら,君は法に 従って行なって行けるか?その他はすべて動揺になってしまう ではないか?彼はこれはみな偽りだと思っている,彼には始ま りから終わりまでこのような一つの問題が存在している。だか らこのような一種の魔の形式が有ってわれわれを邪魔する。若 しこの種の魔がないとしたらどうなるだろうか?人も言った, あなたのこの法輪大法の中でこれらの破壊がなければ,これら のものが邪魔に来る事がなければ,君はそれはあまりにも修め やすいではないか,それでは人が向上し上がったことを如何に 見るのだろうか?ただ少し辛い,体が辛い,君が平時それらの 面倒な事にぶつかるだけでは,それでは君は地金が出たのでは ないのか?君は法に対して確固であるかどうかという方面にお いてどうすればいいか?人は修煉するには各方面でも向上を得 るべきなのだ。動揺心も一種の安定でない執着で,執着心でも ある。
ここでついでに私は更に一つの問題を出し,更に一つの事を 言おう。ここまで言い及んだから,私は皆が皆私に少し多く言 わせたいものと見た。つまり私は班を行った時,一つの問題を 言った,つまり業力に関する問題だ。悪いことをやるなら業力 を得る,良い事をやるなら徳が積もり,徳を得ることができる。 私は後の幾つかの期に班を行った時,人には一種の思想業力が 生じるはずだということに言い及んだ,これについては過去詳 しく言っていなかった,私はただおおまかに業力の存在につい て言っただけだからだ。思想業力については詳しくは言わなかっ た,それではこの種の業力はそれは何の悪い作用をすることが できるか?皆は全て指導員だ,将来この種の情況に遇ったら皆 に解釈できる。ある新学員は煉功すると,先生を罵る;ある新 学員は煉功すると,法輪大法を罵ったり,思想がしっかりして いない。
何故この情況が出現するのだろうか?そして罵った汚い言葉 はかなり多かった,平時思いつかない汚い言葉も口から出る, 甚だしきに至っては口から出なくても思想の中にそれを思い出 すのだ。多くの人はこのような過程があったことがある,特に 煉功の初期にこの問題が出現するはずだ。君が真に実修しよう とする時,多くの人は皆この問題に遇うはずだ。だからある人 はそれで考えた:『私はどうして先生を罵るのか?』その思想 には『この法は偽りだ,彼に従って学んではいけない』が生じ る,このような考え方は有り得る。ある人は思想が確固でなく, 付き従って行ってしまった,もう再び煉らない,信じない。わ れわれは述べている,この揃いの功法の修煉は人の主意識だけ 修煉し,君自身が自身でさえも把握できないなら,誰でも君を 度することができない。何故われわれは精神病病人を班に参加 させないと強調したのか?つまり彼自身はもう自身を把握でき ない,自身を掌握できない。それではわれわれが度したものは 誰か?われわれは君自身を度するではないか?だからわれわれ はこの問題を言う。
それでは一部分の人は見分けることができる。ある人はすぐ 考えた:『私は何故先生を罵るのか?私は何故法を罵るのか? 私はそれを制御しなけれないけない』長時間の精神緊張をもた らすなら,自分も制御できないが,しかし私の法身は全部知っ ているはずだ。君がこんなにも確固であることを見ると,君を 助けてこの思想業力を消させる。その実はというと,皆その思 想業力が災いしているのだ,君が過去人を罵ったことがある, 君の過去のその良くない思想は皆湧き出ることができる。何故 この情況が出現するのだろうか?皆は考えて見よ,われわれが 煉功することが業を消すのだ。別の空間の中の一切の物質は皆 生きているものだ,私はとっくにこの話を話したことがある, 私は班でこの話を言った,その業力それも生きているのだ。君 が業を消そうとするなら,その業が消されると,それは死んで しまい,なくなってしまう,それではそれは承知できるか?君 がそれを死なさせてそれは承知できるのか?それは既に生き物 なのだ,だからそれは君に煉らないようにさせる。煉らせない のはそれが生きて行きたいからだ,君がそれを消さない,だか らそれが君の頭の中に汚い言葉を反映して,君に法輪大法を信 じさせない,ひいては私を罵る,どんな言葉でも思い出すこと ができる。ある人は彼自身がはっきり言えないのだと思った, 誰かが彼を暗示するではないか,或いは自分が本当に知ってい るだろう,彼ははっきりと見分けられないでいる,それで付き 従って行ってしまった,この人はこれでおしまいである,誰で も度することができない。その実はこの思想業力が阻害作用を しているものだ。
それは一つの段階、かなり短い一つの段階だ,君の思想が確 固して来るなら,それを消すことができ,この業力を消すこと ができる。過去班をやった時重点としてはこれを講じなかった, 最近の一時期,少なくない人は私にこの情況を反映した。皆は 心配しないでよい,君は私を罵っても,法輪大法を罵っても, それは君自身が罵っているのではない。なんとしてもはっきり 見分けなければならない,主意識が若しはっきりとしなければ, それでおしまいである,誰もが度することはできない。多くの 地区にもこの現象が出現した,ある人はひいては『私はどうし て先生に申し訳ないことをするのか?私は何故先生を罵るのか? 』と思った,長春ではこのような一人の学員があって:『私は どうして先生を罵り、大法を罵るのか?』と言った,私の写真 のすぐ前で:『先生,私は煉れないのです,私が煉ると思想の 中であなたを罵る,私は修められないのです,私は先生にまこ とに申し訳ございません。』と言った,法輪大法に接触すると 罵る,本を持つと思想の中で罵る。最後に:『こんなにいい先 生ですのに,こんなにいい法ですのに,私はまことに申し訳ご ざいません。』と言った,もちろんわれわれのこの学員,彼の 思想ははっきりしないことは少しもない,彼は明々白々で,私 がこうしては先生に申し訳ないと言った。その後彼が煉功の時 この事をわれわれの煉功点の指導員に教えた。指導員はすぐ本 站に報告した。皆はこの情況に即応して,これは魔が働いてい ることなのだと彼に教えた,その実はこの種の業力それも魔の 一種の形式だ。彼が煉功して魔を招くこの一段の時間の内に皆 は彼を囲んで煉り,彼を囲んでいる一周になっている人は彼に 向かって本を念じたので,彼の頭ははっきりするようになった, 実際に彼を助けて業を消すのである。
当然,私の本はこのような一種の作用をすることができる。 君は信じないかも知れないがある人は病気にかかって,もちろ ん私は病気にかかるということをいうのがいやだ,実際はその 病気、その細菌とその病毒等という微生物は,すべて業力がわ れわれのこの空間の身体にある体現だ。だから私の本を念じれ ばそれを消すことができる,本を念じる時打ち出したのは全部 功で,打ち出したのは全部法だ,それで業を消す作用をするこ とができる。彼は頭がはっきりした,良いことだと思った。し かし帰ると彼は再発した。何故再発したのか?そのじつはこの 一段の時間は,彼の思想業力がわりと大きいので,彼は他の人 より少し多く引き受けなければならない。しかし彼は分かった, 彼は引き受けることができた,時間も長く経つことなく,私の 法身は彼を助けて業を消し,残りのは消してしまった,彼も乗 り越えて来た。現在はいい様子で,何事もない。この問題が出 現したとなったら,皆はそれを精神病で良くないこと,或いは 憑依としないで,そのような情況のものではないのだ。
最後に私はちょっと希望を出したい。皆の時間をもっと多く 占用しようとは思いたくないのだ,指導員会だから,君たちの 站の中にはまだ他の用事がある。皆は今後一つの法を学ぶブー ムを引き起こすように希望する。毎日の煉功を法を学ぶことよ りも重要だと見てはいけない,われわれの毎日の煉功は堅持し なければならないし,毎日法を学ぶことも同様に堅持しなけれ ばならない。本当にこの法をよく掌握してこそ,君に修煉を指 導することができる。ある人はただ単に先生を待っている,事 があったらただ先生が彼に解答するのを待っているだけだ。実 はその法の中には何でもある,君が学びに行きさえすれば何で も解答を得られる。もちろん君が法に対して信じていなくて、 動揺するなら,それは即ち悟性の問題だと私は言う。それに, 我々の在席の皆は全部指導員で,指導員の仕事をしている,も ちろん,皆は全部義務なのだ,我々は皆に対して君はどのよう にやるべき,如何にやるべきといった強化要求はない。勿論我 々は指導員には真面目に責任を持たなければならない,煉功に は専一でなければならないと要求している,これはなくてはな らないものだ。我々は誰かを制約する何かの行政手段も要らな い,われわれにもこの権力がない,修煉は自分によるのだ。わ れわれは一つの皆を組織し、皆を助けて問題を解決するという ような一つの義務を引き受けたにしかすぎない。
それでは指導員としては法に対する認識において一般の学員 より少し高くあるべきなので,多く法を学ぶべきだと私は思う。 ある学員が問題を出したら解答できない,これも問題だと私は 思う。君に学歴がなくてもかまわない,皆を組織して法を学ぶ 時,皆が本を念じる時,皆が認識したことを言う時は即ち君に 対する向上である。私が長春にいた時,彼らは一回指導員会を 開いたことがある,私がこういう一句の話をした:われわれの 今日のこの種の修煉形式,常人社会の中で修煉するこれらの人, それは取りも直さず常人と同じだ,しかしわれわれは実質的に は一人の煉功人だ,また常人とはちがうと私は言った。それで は一人の指導員としては,皆で考えて見よ,君は一組の人を組 織して煉功をする時,君の責任は何であるか?若し専門修煉に すれば,それは即ち廟中の方丈、住持だ。皆は考えて見て,そ れでは我々はこの仕事をよくすべきではないか?一人の修煉の 人としては,君は修煉しなければならない,それに皆を助けて 修煉すべきだ。皆に対して要求が高くなったということではな い,実質はこうであるのだ。皆はぜひともこの率先垂範の作用 をよくし,学員をよく組織し,この法輪大法をよりよく発揚し 輝かせて,人類に福をもたらす。これは我々が最低層次におい て講じたことだ。実際もこうなのだ。
更に一つの事がある,私は思い出したが,先程は我々全てに 対してこのような幾つかの要求を出した。またある一部の人は 何時もあまり仕事に専念しない。社会の事は何でもかまわない ようだ。ただその劫難が来ることを待っている。ある人は尚も 私に,この劫難は何時始まるかと聞こうとする。私が班をやっ た時この問題を講じたことがある。私は何の劫難か?皆よく考 えて,その劫難は誰に対して来るのか?いい人は劫難の中にな い,真に劫難があるとしたらその良い人は皆残されるのだ,そ れは悪い人を淘汰するのだと言った。だから君は一人の修煉の 人だ,君は向上しているのに,君はまだそれらのことに触れて 何をするというのか。それは何の難でも、何の難でも良い,君 と関係はない。これは仮に真に劫難があるとしたらということ を言ったのだ。ところが私は今日明確に皆に教えられる:この 劫難は既に存在しなくなった。過去人は,地球は爆発するとか, 惑星にぶつかるとか,大水が出るとかと言った,皆はこの難を 知る,過去決められた難は一つから一つへと続く,異なる層次 上に決められた難は皆過ぎた。彗星が木星にぶつかったが,地 球にぶつからなかった。あの洪水は既に過ぎてしまった,去年 のあの洪水はかなり大きかった,それは全世界性なのであり, 既にかなり弱小になった,その程度まで小さくなって過ぎた。 多くの事は皆過ぎた,つまりそれは既にこのような難が存在し なくなるということだ。唯一存在するのは即ち,我々には隠し たりすることは何もない,唯一存在するのは将来一群の人,そ れらのとても良くない人を淘汰するかも知れない,一種の強大 な疾病の中で淘汰されるかも知れない,これは可能なことなの だ。だから我々はある一部の人は何時もこれらのことを話した りすると言ったが,君はそれらの事にかまわなくていい,この 種の災難は既に存在しないのだ。如何に修煉するか,如何に自 分を高めるか,これこそ肝心要の問題だ。
私はこれだけ言う,次にわれわれはやはり続けて会を開こう (熱烈な拍手の音)。
法輪大法北京指導総站による録音