ニュ -- ヨ -- クでの講法
(一九九七年三月二十三日)



 遠く大洋を隔てているね,皆さんと一回面会するのはなか
なか得難いことだ。しかしね,君達は私本人に会えないが,
実は君が修煉さえすれば,私は君の身辺にいる。君が修煉さ
えすれば,私が君に最後まで責任を持つことができる,しか
も私は何時でも君を見守っている。(拍手)若し誰がこうし
なければ,邪法を伝え,悪事をし,勝手に天機を漏らすこと
と同じだ。無論,実践を通じて皆さんも分かったから,この
方面について私も余分に解釈しない。できることは私は言う
が,できないことは私は言わない,だから,大法はずっと健
康的に発展している。

 前回私が皆さんと面会した時,こんなに人が多くは無かっ た。勿論又多くの人は仕事で手が離せないため来なかった, つまり,前回皆さんと面会してから,我々の又多くの人が入 道して法を得た。この法は彼を迅速に発展させ,広め輝かす ことができて,これは大法の威力だと私は思う。同時に我々 が大法の伝播の過程中,歩んだ道は皆正しい。我々も確かに 学員のために責任を負い,社会に責任を負うことができたの で,このような効果を取ることができた。皆さんと面会する 機会はとても少なく,アメリカに一回来るのは容易くなく, ビザが要るので,わりと少し面倒だ。皆さんと一回面会でき て,私はできるだけ皆さんを助けて何らかの問題を解決した いと思う,何か問題があれば君達は出してもいい,私は皆さ んのために解答をする。我々は充分にこの時間を利用し,皆 さんを助けて一部の疑わしくて難しい問題を解決して,大法 をアメリカで更に健康的に発展できるようにする。本来学員 達に一部の具体的問題について話したいと思ったが,在席の 一部分の人は昨日既に“特別食”を取った,彼らが来たのは わりと早いので,昨日私は彼らのために一部の問題を解答し た。しかしかまわない,今日君も遺憾しないで,昨日君は聞 けなかったなら君は続けて問題を出してもいい,私は皆さん のために解答する。

 私はこの時間を利用して皆さんに修煉中の事,つまり法を 講じる。皆さんがこの間の時間にかなり速く向上した,しか も相当速いということを私は知っている。私は前回アメリカ から中国に帰ってから,私は中国の学員に既に言った,私は アメリカという所はかなり特殊で,沢山のエリートがいる, 特に華人のエリートがここにいると言った。これらの人は根 基が割合良く,大法に対する理解が深く,理解が割合速く, 層次の突破も割合速い,これは君達の優越な条件だ。しかし 自分で得意になって喜んではいけない,不同方式の何らかの 執着と障害もある,全て克服を待つ必要でそれで始めてより 速く向上できる。

 次に私は病業の問題について講じる,これもずっと我々の 多くの法を深く学んでいない学員を困惑させる一つの問題だ 。しかし私は本の中に既に書いている,つまり我々修煉の人 は如何に病に対処する問題について,私は又それをもう一つ の側面から講じる。実は我々煉功人は常人に混同してはいけ ないのだ。皆さん知っているように過去昔あの和尚が出家す ると,人はもう彼を常人として見ないのだ,彼は既に一人の 半神だ。それでは人と神の間に何の差異があるか?人は情が あるもので,しかも情は又非常に重い,人はこの情の為に世 間で生活していることだ,この情が無ければ君も世間で生活 することができない。君は何が好きか,何を愛好するか,君 はどんなに嬉しいか,君はどんなに怒るか,親情や,夫妻の 情や,児女の情や,君はこれがやりたい,これがやりたくな い,君はこの事が好きで,この事が好きではない,等々,一 切の事,それは全て人の情だ。この情が無ければ,それで常 人社会も無いのだ。この情の状態の下に,人が常人という状 態中に符合してやった一切の事は彼は間違いだとは君は言え ない。それでは何故過去歴代にも多くの人は,人の認識した ことは全て間違いのことだと言ったのか?このことを言った 者はもう常人ではなく,彼らが別の一つの境界の中で人を見 ていたからだ。しかし君は常人の中にいては,君は彼は間違 いだとは言えない。私は昨日常人という社会は非常に良くな いと言った,しかしそれも全宇宙の上から下まで貫いて来た 一つの層次,最低の一つの層次だし,宇宙の特性、大法の最 低の一つの層次に於ける具現でもある,この層の人が欠いた らいけないよ,一人一人も佛に修成することも不可能なこと だ。人類社会は存在しなくなることも不可能なことだ,それ はこのように存在しているのだ。ただこの環境はとても特殊 で,それは高境界の中の人を養成することができる。それで 君は高境界の中に立って人を見るなら違うことだ。だから私 が言ったように修煉の人である君は常人の観念により君の見 た、触れた、体得した一切の事を量ってはいけない。それで 君は高基準により自分に要求しなければならない。

 常人は病に罹って,病院に行かなく,薬を飲まないなら, それは常人の理に符合せず,世間の道理に符合しない,人は 受けられない。人は病に罹ったら当然薬を飲むよ,人は病に 罹ったら当然病院に行って病を治すよ,人はこのようにこの 問題に対処するのだ,これは間違いが無い。しかし一人の修 煉の人としては,君は常人に混同してはいけない。少し酷い 話しを言えば,君はもう人ではないのだ。私が先程言った, 人は七情六欲があり,情の為に生きている。君は次第にこれ らを淡く見,次第にこれらを淡泊にしている,修煉過程中君 はずっとそれを完全に放棄するまでするのだ。人はこの為に 生きているが,君はこの為に生きているのではない,君は人 と同じでありえるか?もう違うことだ。それでこうである以 上,君は何故人と違うあの高層次の理によらずに問題を量り ,君自分自身と君の遇った事を量るか?その通りだ,だから 我々修煉人は一旦身体にどこが具合が悪いことが出現した時 に,私が皆さんに教えたように,それは病ではない。しかし 常人が思ったこの病の状態は,修煉人の身体の中で業を消す 時に現れた状態とは同じだ,常人はなかなか区別できない, だから修煉は一つの悟を重んじた。それは若し異なるなら誰 でも修煉し,悟のことが無くなる。彼のその身体は美妙な事 ばかりで,苦しい事が出ても神仙のような表現ならば,君が 言って見て誰が修しないか,皆も修するのだ,しかしそれも 認められないのだ,修だとは言えない,彼にこのように修さ せてはいけない,悟が無いものだ。だから修煉は必然にこの 真偽の中で君を試練して,君がどのようにこの問題に対処す るかを見る。君は君を一人の修煉の人とするかそれとも自分 を一人の普通の常人とするか,これはこの人が修できるか否 かを見ているではないか?勿論,言えば表面ではこの普通の 人は常人と違う所が無いようだが,実は君は一人の修煉の人 だ。

 私は昨日又佛法修煉の問題を講じた,修煉という事は宇宙 中の最大な一つの事だ,人がそのような一つの境界の中に昇 華して行って,羅漢、菩薩、佛、道、神になる。ある満身業 力の人が神になりたい,君に言わせれば彼は一つの厳粛な事 ではないか?君は非常にしっかりとこの高基準によりこれら の問題を見、正念で自分に要求するべきではないか?君はや はりあの常人の観点によりこの問題を見るなら,それで君は 常人になったのではないか?こんなに厳粛な事で,君を佛に ならせるのに君はやはり自分を人として見,君はやはり人の 理によりこれらの事を量る,それではそれはだめになる,と ても厳粛でなくなる,それで修することもできなくなる。あ の佛、道、神は現在のあの和尚、現在の人が認識したことの ようではない。皆さん知っているが,あの佛や神は常人の情 が無いのだ,常人の思惟方法と常人の事物に対する認識のそ の観念も無い。彼は全く別の一種の境界の中の思惟方法で, 人の事物に対するその思想概念、観念は彼らは全て無いのだ 。現在人は佛、菩薩を人化し,人情化し,人間化した。ある 人は廟へ佛を拝み香を焚きに行くが,彼は修に行き敬いに行 くことではなく,求めに行くことだ。執着的に佛を求めに行 く,君は考えて見,これはなんと良くない一つの心だろう!  過去人が佛を拝むのは崇敬するだけで,佛を敬いに来た、 佛を拝みに来た或いは佛を修しに来たのだ,佛は偉大で,佛 は巨視的に人類を保護しているからだ,君自身により何かを 求めることではない。しかし現在の人はこうではないのだ。 過去の人は佛、菩薩を思い出すと皆一種の正念を持って,一 種の崇敬の心理を持って始めて佛、菩薩その字を言ったのだ ,とても殊勝で、偉大だと思った。しかし現在の人なら彼は このような一つの観念が無い,彼は勝手に口を開けると佛の ことを言える,佛、菩薩が口に付いたように平気で言う。あ の佛像は酷くなると勝手に至る所に出鱈目に刻まれ、出鱈目 に描かれる,しかもどこに置いてもいい。阿弥陀佛、聖母マ リアの像も墓地の中に差されていた。本当に人が神にその死 んだ人を見守るように指図しているようだ,人が神に如何に やるように指図している。その心ではないか?皆さん考えて 見よう。なんと神聖な偉大な一人の神は,手を振るう瞬間に 全人類を幸福にさせることができる;手を振るう瞬間に全人 類を滅亡させることができる,君はこのように彼に対処する か?若し彼らは人に慈悲を持っていなければ,人が無知に悪 事をする時,一瞬間に人を影も形もないように壊滅させてし まう。人は彼は現在これらを理解できないから,彼は敢えて こうやるのだ。実際は彼は佛を謗っているのだ,私が前回話 したことのようだ。前回皆さんに言ったが,献立の中にも何 か“佛が壁を飛ぶ”があるよ。佛は色味の執着が無いのだ, この香りを嗅ぐと,壁の向こう側から飛んで来て食べようと する,これは佛を最悪毒謗っているではないか?又何か“羅 漢斎”や,等等等等がある。あの羅漢も常人の如何なる色味 の執着が無いのだ,君はそのおかずは羅漢が食べた羅漢斎だ と言ったら,君は彼を罵っているではないか?彼の見たとこ ろでは常人の食べ物は汚いものだ,だから彼の観念は人とは 同じではない。現在人は金銭と欲望の為に,神、佛に対しこ のような一つの状態を造った。佛、道、神彼らは人の観念を 持っていず,常人という思惟方法を持っていない。しかし, 私が先程言ったように,人は佛を拝む時に,その崇敬、修し たい心を抱いて佛を拝むことではなく,佛を求めに行くのだ ,私が息子を生み、金持ちになり、災いを消し,難を解くよ うに御加護願う,全てはこの心だ。しかし佛はこれにかまわ ない,佛は根本から人を度するのだ。君は神仙のように,常 人の中で気持ちが良く,金が幾らでもあり,何の災い、何の 難も無いようにすれば,本当に君は佛を修したくなく,君が 神になりたくないのだ。君は今は神になったのだ,なんと気 楽だね。こうなるのは不可能だ。

 人は生々世々とも業を造っている,自分の業力は自分の来 世、現世の困難、苦痛、磨難、金が足り無いこと、多病を促 成した。君は業力を返済してから,君は始めて幸福を得るこ とができ,良くなれる。悪事をしたのに返済しないならこれ はいけないことだ,宇宙にはこの理が存在している。前世の 事と来世の事は二人の人のようだと君は思っているが,実は 人は君の生命を見るのは君の全体の生命過程を見るのだ。君 は一眠りして,君が昨日した事と今日した事とは別々の事だ ,昨日は君がしたのではないと君は言ったが,それは全て君 一人がしたのだ,彼らはこのように生命を見るのだ。だから 私が先程押し広めてこの意味を言った,常人の観念によりこ れらの問題に対処してはいけない。常人は病気に罹ったら薬 を飲むほかはない,一人の修煉の人としては,私はどうして も君に薬を飲ませないのではない。しかし我々が言ったこと は修のことではないか?悟を重んじるではないか?君に全部 悟るようにさせることでもない,君はどれくらい悟ればそれ だけ悟るがいい。君はだめだ,“私はどうしてもこの心を放 下できない,私は又薬を飲まなければならない,煉功しても 私が薬を飲まなければならない”と言った。しかし私はどの ようにこの問題を見るか?私は彼の悟性が低いことに対して とても惜しいと思うだけだ,この関を彼は過ごしていない。 本来彼が向上し,圓満に向かって大きな一歩歩き出すべきだ が,しかし彼はこの一歩歩き出せない。私はただこの為に惜 しいと思うだけで,この人はだめだとは言っていない,この 人が薬を飲んだので絶対に修することができないとも言って いない。悟性というものは各人がそれぞれ違う,根基も各人 がそれぞれ違う。君が向上してから君は始めてこの一関を過 ごすことができ,君は始めてより新しい認識がありえる。君 が向上できなく,君はこのことを悟れないなら,これは君は この一件の事においてやはり常人だと証明している。ところ がこの人は全くだめだと言うこともできない。

 私は更にこの薬を飲むことと業を消すこととの間の関係を 言おう。先程私は生々世々で業を積もってこそ病を促成した のだと言った。あの業はどんな物か?別の空間に存在してい るあの業その微粒子は小さいほど,つまりその顆粒は小さい ほど,その力は大きい。若しそれが我々のこの空間の中に浸 透して来た時なら,それは微生物で,一番微視的な病毒だ, 君に言わせればその病それは偶然なことか?現在の医学、現 在の科学によりそれを認識しては認識できない,現有の分子 から組成された最大な一層の粒子から構成されたこの層の表 面の空間の中に現れた一種の現象しか認識できない,それは それで病があったやら,瘤が出たやら,どこが炎症が起こっ たやら,あれこれだと思う。しかし現在の科学それは彼に病 をもたらした根本的原因は何か見分けられない,彼は皆それ を常人の認識できるその僅かな道理により解釈する。勿論, 人は病に罹った時に往々にそれを世間その一層の理に符合さ せる,往々に世間においてそのような一つのこの病の現れを 引き起こしたそのような一つの外因条件がある,これで非常 にこの世間の理に符合したようだ。実はそれはそれをこの世 間の理、この世間のそのような一つの状態に符合させる為に 出現した外因条件だけだ。しかし根本な原因,病がこの空間 に生じない。だから君が今薬を飲むのはこの病、表面の病毒 を殺すのだ,薬は本当に表面の病毒を殺すことができる。し かし煉功人の功は自動的に病毒と業力を消滅している。とこ ろがこの薬それがこの表面の別の空間から浸透して来た病毒 を殺した時,如何なる物体も生きものだから,あっち側の病 毒,つまりあっち側の業力がすぐ分かった,それがそれで渡 って来ない,君はそれで薬を飲んで治ったと思う。しかし私 は君に教えよう,それが却ってそこに蓄えられた。人は生々 世々にもこのものを蓄えている,一定の程度まで蓄えるとこ の人は救うてだてがない,と同時に死亡の時に徹底に壊滅さ れてしまう。生命を失い,永遠に生命を失う,こんなに怖い ,だからこの中にこのような一つの関係を講じた。人は君に 薬を飲ませないのではない,常人は病があったら治療しなけ ればならない。

 しかし修煉の人としてね,我々はどのようにそれに対処す るか?君の身体を浄化させるではないか?君の身体は樹の年 輪のように生々世々で,その最中心から業力があり,各層に も業力がある,君が修煉している時に私はこの業力を中心か らずっと外へ推し,推し推し推し推している,君のために業 力を徹底的に推し出してやる。そして全部我々の身体の表面 を通ってはいけない,全部身体の表面を通るなら君は我慢で きない。ただ身体の表面から一部分が出るだけでも,君は突 然病が来たと思う,苦しくてたまらない,苦痛でたまらない ,君は耐えられない,自分を常人とした,薬を飲んだ。それ で君は薬を飲むがいい,我々も常人は薬を飲んではいけない と言っていない,我々はただ君の悟性が足りないと言っただ けだ,この関をよく過ごせなかった。我々も君は修煉した以 上薬を飲んではいけないと規定していない,このような硬性 規定を作っていない,しかし,私は皆さんに法の中の道理を 講じている。では君はこの業力を放出したいが,君は薬を飲 んで又この業力を戻るように押したら,如何に君の為に身体 を整理するか?無論我々は別の空間から君のために全部推し 出すことができる。ところがこの宇宙の法の中に一つの道理 がある,君のために業を消す時に君はこの事で苦痛を受けな ければならない。君が以前他人に造った苦痛を,自分は同様 に受けるわけだ。しかし修煉人にとっては君に同様な方式で 全部を受けさせてはいけない,死んでしまうはずだ,それな ら修することができなくなる。一人の修煉の人として圓満に なってから福を以て傷害された生命に報いる,しかし君は精 神的な苦痛のその一部分を受けなければならない。人に借り たその部分を受けると同時に君がこの業を返しているのだ, 君が苦痛を受けたからだ,問題は孤立的ではない。この業を 返すと同時に,苦痛の中で君は自分を修煉の人としなければ ならない,君はそれを病としていない時,君はこの問題にお いて君は確かに一つの高層次の認識で,常人の考え方ではな い。君の境界、思想はこの問題において君が向上して来たで はないか?この問題ではないか?動作を煉するだけで人が修 煉し上がれるなんて,それは冗談だ,動作は圓満となる輔助 手段だ。

 人の心が修煉し上がらないなら永遠にも層次を高めること ができないのだ。人々が言ったように読経すれば佛に修成で きるということでもない,又ある人はどれだけかの良い事を すれば佛に修成できると思っている,それは全て笑いぐさだ 。皆有為の法だ,君は実修しなければ,読経して何の作用が あるか?修しなければ佛になるのは全然不可能だ。釈迦牟尼 佛が当時法を伝えた時経書は無かった,イエスが当時彼の法 を伝えた時にも経書が無かった,人々は実修するほかにない 。君はこの心を修しなければ君は上がれるものか?君はその 境界の要求に達することができなければ君は上がれるものか ?常人の七情六欲各種の執着心、金の欲望は佛になる心より も重い,君は天に上がれるものか?それは全然不可能だ。皆 さんは皆聞いて分かったと私は思う,つまり一人の修煉の人 として既に一人の超常人だ。それなら一人の超常人として, 如何に身体が苦しいという状態に対処するか?常人は病気が あるのだ,しかし君のその身体は私が君のために外へ業を推 しているのだ。表面まで推した時,人の身体表面の末梢神経 は一番敏感なので,身体の具合が悪くて,病気に罹ったよう だと感じる,しかもあるものはとても重く表現される,こう なるはずだ。こうなる以上皆さん考えて見よう,君はもし君 を常人とすれば,君はそれが病気だと思えば,勿論それでも いい,君は薬を飲むがいい。この関を君は過ごせない,少な くともこの一つの問題において君は常人だ。君は何時この関 を過ごしたら,この一つの問題において君は超常なものだ。 ところが君が佛に修成したければ,君はあらゆる問題の認識 においても超常なものでなければならない。君はその心を放 下できなければ,君はこの一関を過ごせない,君は圓満とな るのが不可能だ。だから君はもしこの機会を失ったら,この 一関を過ごせない。何故我々の一部の輔導員、古い学員はか なり分かっているか,学員が薬を飲むことを見ると焦る。勿 論彼らは私のように対処できない,皆さんは皆よく知り合っ ているから,彼は“あなたは薬を飲んではいけないよ”と言 って,あれこれと,彼に教える。勿論彼は又悟らない,“私 は煉功して何故私に薬を飲ませないか?”彼は悟らないなら この事がやりにくい。我々は皆は薬を飲まないことと強硬に 規定していない,私はただ薬を飲むことと薬を飲まないこと は修煉人に対する一つの道理を言っただけで,常人は薬を飲 んではいけないと言うことではない。 

 我々のこの法の伝わりは世間で修煉するものだ,修煉の人 が一人一人も佛になれるとは限らない。ある人は非常に精進 し,非常にしっかりしている,それで彼が圓満に向かって行 く進展は速い。ある人はそんなに精進しないかも知れない, 彼が圓満に向かって行く進展はかなり遅いはずだ。ある人は 修しているようだが修していない,信じているようだが信じ ていない,それで彼は圓満ができないかも知れない。しかし 修煉として言えば,彼は無駄修したはずはないかも知れない 。現世修成できなくて,だめになったが,来世を見る,彼は 来世できるかも知れない。彼は修したくないかも知れない, それならこの大法の中で彼は畢竟一部の心を放下したし,佛 法も聞いたし,常人と比べれば悪くないほど修した,彼は彼 の来世の福運を構成させるかも知れない,来世は彼が大金持 ちになり大官になるかも知れない。それらのものは福運にし か換えられない,彼が修し上がれなくても,彼も無駄修した はずはないからだ,それがこの道理だ。私の思いでは一人の 修煉人として今日法を聞けた以上,私は皆さんが皆最後まで 修してほしい。佛法は誰でも聞けると言うことではない。実 は私が皆さんに言う,アメリカという処は割合特殊であるか らだ。私は本来二年前からもう法を講じない,しかしアメリ カは華人がとても多い,そしてアメリカ人にも多くの善良な 人がいる,私は彼らにも法を得させたい,実は系統的に講じ ることでもない,ただ情況に即応して講じる。本が既にあっ たので,皆学ぶことができる。輔導站もあった,皆さんは付 き従って煉することもできる。一人の人としては佛法が聞け るには,数千年に一回だ,そして君は必ずしもその機縁があ るとは限らない。六道輪廻で転生される時に人が不同の動物 、植物、物質に転生することができるからだ。数百年か千年 以上で一回人に生まれ変わる,この数百年数千年の転生の中 で君はそのある時期に丁度君が人だということに会わなけれ ばならない,それに君がこの法に会えるという処に転生しな ければならない,又彼を聞ける機縁がありえるし,この班に 参加できる世間のその時間に及ばなければならない。勿論沢 山のこのような機縁が寄せ集められて,君は始めてこの法を 得られる,なかなか容易なことではない。

 私が講じたのは佛法だ,皆さんは皆はっきり分かったと私 は思う。私は常人の中の道理を講じていない,そして私が講 じた多くの問題は全て常人の中で従来人に講じれらたことの ないことで,常人の中の知識でもない。

 この薬を飲む問題について今私はそれを又一回講じた,こ の問題は各地区でも割合突出であるからだ。ある人は大法を 破壊しようとして,薬を飲まない問題に対して“この功を煉 すると我々に薬を飲ませない”などと言った。実は私は君に 薬を飲ませないことではない。無論我々の在席の輔導員も仕 事の方法に注意しなければならない,強いて人に薬を飲ませ ないことをしてはいけない。我々はただ道理をはっきりと言 うだけだ。彼は修したければ彼は修するがいい,彼は修した くなければ毒薬を飲んでも常人の事だ,彼のこの心が動かな ければ誰でも仕方が無い。我々は縁を重んじて,善を勧める ことしかできない。人を強化するのは修ではない。

 私は又一つの問題を言う。今日のまる午後の時間を全部皆 さんにあげたから,私が講じ終えてから,皆さんは問題を出 してもいいが私は又皆さんのために解答する。中国大陸で“ 文化大革命”を経てから生まれた若者は,佛や、菩薩や、神 に対して,理解がとても浅い。私が伝えたのは佛法だ,一部 の人は彼は良いと知っているが,一部の名詞をやはり理解で きない。佛家の何らかの事に対して知っていたことがとても 少ない,つまり佛家に対しての認識はあまりはっきりしない 。

 次に私は簡単に阿弥陀佛と釈迦牟尼佛のことを話す。私が 話したのは経書のと同じではない。私が話したことは釈迦牟 尼佛は二千五百年前にも話したことがあるが,当時の和尚は 後世の人に伝えていない。経書は釈迦牟尼佛が世を五百年去 ってから始めて系統的に整理し出されたのだ。皆さん知って いるが五百年,中国はちょうど元朝にあった,成吉思汗は当 時何を言ったか今誰が知っているか?でも何と言っても佛法 だから,断片の不揃えのものと口伝えのものがずっと伝わっ ている。しかし往々に彼は佛がその話を言った時間、地点、 場合、含意を失うはずだ,不同の人を直視して講じたこれら の要素が全て存在しなくなった。伝わる過程で,圓満となっ ていない人は全て人の観念の存在がある。人は皆自分の観念 に符合するものを入れ込むのが好きで,この佛法を変える。 不理解の部分を削除して,段々に又佛、菩薩、これらの神を ,人情化させた。自分に符合するもの,理解できるものなら ,彼はそれを伝える。自分の心理要求に符合しないもの,自 分のその観念に符合しないものは彼は言いたくないから,伝 わって来ていない。

 先ず釈迦牟尼佛のことを言う。釈迦牟尼佛について歴史上 確かにその人がいる,二千五百余年前,古インドで,修煉の 人に彼のその一佛門の修煉方法を残した,戒、定、慧と言う 。佛教に至ってはそれはただ現在の人が政治をやってそれに 名付けた名字だけだ。釈迦牟尼佛は宗教を承認していない, 彼も自分は宗教だと言っていない,人は彼を宗教と言ったの だ。彼はただ佛法を伝え,彼のその一門の圓満できる方法を 講じただけだ,戒、定、慧と言う。無論この中の具体的な事 について,経書の中に記載がある,私は余分に言わない。皆 さんは皆知っているが,阿弥陀佛は極楽世界を持っている, 薬師佛は琉璃世界を持っている,各佛も一つの天国世界を主 持している。この佛、菩薩、如来は,我々中国人の名詞だ。 如来は天上においては彼は法王と呼ばれる,つまり彼のその 天国の主持だ。しかし彼の統治方法は,人のように何か行政 手段、法律を使って管理するのではない,これらのものは無 い。彼は全く慈悲善念によるのだ。皆は皆そんなに良く,そ の基準に符合して,君は始めてその世界に入れる。それで, 各佛も一つ自分の主持する世界を持っている,しかし以前誰 も釈迦牟尼佛がどんな世界を主持するかを聞いたことがない ,誰も釈迦牟尼佛は本来誰か?を知っていない,誰も釈迦牟 尼佛の世界はどこにあるか?を知っていない,ある和尚は, 釈迦牟尼佛が娑婆世界にいると言った。しかし私は皆さんに 教える,娑婆世界はどこか?我々の三界の内だ。それはどう して佛世界になれるか?なんと汚い処だろう!皆その処から 離脱するのに,どうして佛世界になれるか?この中の事は和 尚でもはっきり言えない,宗教の中にも記載が無い。実はね ,釈迦牟尼佛が来た層次はとても高い。この宇宙は非常に大 きい,この後すぐ私はその構造,宇宙の構造を話す。釈迦牟 尼佛が下りる前にいた最低の一つの層次,その層次上から, 直接人に転生したその層次は,第六層宇宙上にある。第六層 天ではない,第六層宇宙だ。この後私はこの宇宙はどれほど 大きいかを話す。

 第六層宇宙の上に彼は一つの天国を持っている,彼がそこ で創造した一つの天国は,大梵世界と言う。つまり釈迦牟尼 佛は大梵世界から人間に転生して来たのだ。彼は法を伝え人 を度し,彼の弟子を度する為に,大梵世界から転生して人間 に来た。釈迦牟尼佛に伝度される弟子は,皆最低とも六層宇 宙以上まで修しなければならない,こんなに高くまで修する のだ。だから釈迦牟尼佛は下りてから,ずっと弟子が転生し 修煉することを見ており,全然彼の世界の中に帰っていない 。三界の内に大梵天と言う処がある,彼がこの処にいる。大 梵天も彼が名付けた名字だ。彼は大梵世界から来たので,彼 はそれを大梵天と言う,彼はこの中で彼の弟子を見ている。 彼の弟子は皆記号を授けられたものだ,彼が授けた記号は全 て“卍”字符号だ。皆記号を授けた弟子に属する。どれらが 釈迦牟尼佛の弟子か,どれらが違うか,高層次で見るとすぐ 分かる。彼らは高く修する必要だもの,釈迦牟尼佛は彼らを そんなに高い境界の中に度するから,一世では修成できない 。このように繰り返し二千五百余年修した,現在は最後の一 回で圓満となるべきところに直面している。この一世で圓満 してから,彼は彼の弟子を全部連れて行く,皆娑婆世界を離 れる。我々の大法弟子の中で多くの者も釈迦の記号を授けた 弟子で法を得ていたが,大部分の釈迦の記号を授けた弟子は 和尚となったものが多い,常人の中にもいる,常人の中にい る多くの者は既に我々のこの法を得ていた。実はここまで言 うと私は又皆さんに教えるが,私が伝えたこの法は君がどう しても我々法輪世界に行くと言うことではない,私が伝えた のは全宇宙の一つの理だ。私がこんなに大きなものを伝えた ,彼らも皆この法を得ようとする,新しい宇宙は既に構成さ れている,法は乾坤を正す,宇宙の法に同化して始めて上が るように帰れる,これは釈迦牟尼佛が系統的にとっくに彼の 弟子のために手配しておいた,彼はこの日を知っている。私 は又多くの不同な世界と他の正法門の弟子が大法の中で法を 得ていることを知っている。釈迦佛の弟子は大多数が漢地に いる。インドにはいなくなった。しかし世界各地に散在して いるものも一部分があるが,とても少ない。大部分は漢地に いる,漢地はつまり中国大陸だ。

 今私は簡単に釈迦牟尼佛と彼の弟子の状況を紹介した。次 に私は又阿弥陀佛のことを話す。人々は阿弥陀佛のことを話 すと,皆極楽世界があるということを知っている。極楽世界 はどこにあるか?阿弥陀佛は誰か?阿弥陀佛について,佛教 の経書の中に紹介がある,その部分について私は言うのをや める。私は経書の中に記載されていないその一部分を話す。 皆さん知っているが,人々は皆佛が言った宇宙の部分構造を 伝えている,須弥世界と言う処がある,つまり須弥山の説だ 。我々の現在の地球及び三界内外の天体は須弥山の南部にあ る,南膽部洲と言う。この須弥山について,地球はその南部 にある。ある人の理解では“この須弥山はヒマラヤ山ではな いか?当時のインドは南膽部洲ではないか?”それは別々の 事だ。彼は佛だ,彼は話を言うのは世間の認識上で言うので はない,彼の理は神の角度に立って言ったのだ。彼の思想は 人という基点に無い。

 この須弥山について確かにその事がある。それなら何故人 はそれを見られないか?望遠鏡でもそれを見られないか?そ れは最大な一層分子から組成された粒子で構成したものでは ないからだ。私は皆さんに教えるが,分子から組成された粒 子,原子で組成したものは別として,分子から組成された我 々の一番表面のこの粒子よりもっと小さい一層粒子で組成し た物質でも,人はもう見られない。しかしこの須弥山は却っ て原子から組成したものだから,人は全然見られない。しか し最近天文を研究する者宇宙科学を行う者は,一つの現象を 発見したかも知れない,彼らは宇宙の中でどれくらいの見ら れる星系があるとしても,全てその処に至るともう星系は無 いことを発見した。こっちでは星系ばかりで,沢山の銀河系 があるが,ある処に至るとくっきりと消えてしまった,彼ら は宇宙壁と言う,彼はこれは何故か解釈できない。何故あっ ちには無いのか?実は須弥山に遮られているのだ。この山は あまりにも大きいから,どれほど大きいか?その頂きは第二 層宇宙の中心にある,我々のこの小宇宙を超えた,非常に大 きい。だからそんなに大きな一つの山は,人がそれを想像す るのは全く不可能だ,その他の幾つかの部位を見るのは,人 では不可能だ。地球のような一粒の小さい丸い球でも,君は 北京を見たいなら,地球のあっちでは,全然見られない。そ れはそんなに大きな山で,君はそれがどれほど大きいかを全 然想像できない。彼も須弥山の他の幾つかの部位に又他の世 界があると言った,それについて我々も余分に言わない。  それでは何故このような一つの山があるか?我々はこの須 弥山のことを言う。私は皆さんに教えるが,実はこの須弥山 は即ち阿弥陀佛と観音菩薩、大勢至菩薩の一種の形象の表現 だ。完全に彼を形象だとも言えない,何故かと言うと彼らは 佛で人の形があるのだ。彼は又集まれば形になり,散れば物 になることができるが,彼は却って形象があるのだ。彼が散 れば物になるのは彼の変化によるものだ。人は佛を見られな いので佛は身体が無いと言う,彼の身体は原子から構成され ているので,君は勿論彼の身体を見られない,君は彼は身体 が無いと言ったがそれも正しい。それではこの須弥山につい てそれは原子から構成された以上,我々の人の目ではそれを 見られない,しかしある意味から言えばそれは阿弥陀佛と観 音菩薩、大勢至菩薩を代表している,だからこの須弥山は一 つではなくて三つだ,同時にそれも運動している。我々のこ の物質空間のこの物体は死んでいるようで,動かないようで あることを除いて,如何なる一つの空間の物体も運動してい る。皆さんの知っているように分子は運動している,原子も そうだ,全てのものは皆運動している。あの電子が原子核を 回って運転しており,一切も運動しているのだ。物質は運動 しているのだ。しかしあの須弥山は,それはある時に一本の 直線になり,ある時に三角形になる,それは変化しているの だ。人々は不同の角度に立ってそれを見た時,不同の状態下 にそれを見た時,必ずしもその真実な面目を見られるとは限 らない。若しそれが一字形に並んだら一つの山だと君は見ら れる,ある修煉の人は過去見られた,言い方はそれぞれ違う ,彼はその具体的状態を見られないからだ。それではそれは 阿弥陀佛と観音菩薩、大勢至菩薩の一種の象徴である以上, それは何の作用をするか?実は皆が言った極楽世界は須弥山 の中にあるものだ。しかしこの山は我々人間の現有物質に対 する認識という概念のようではない,須弥山以下は全て水だ 。時間は限りがある,私はこれだけ言う。

 次にこの宇宙空間の構成について話す。この宇宙はどれほ ど大きいか,人の言語ではそれを言うのはなかなか難しい。 人の言語は達することができないので,言い出したら君の脳 も収容できないし,君も理解できない。それはあまりにも厖 大だ,大きくてまるで不可思議なほどだ,神にとっても不可 思議だ,だから宇宙はどれほど大きいかはっきり言える佛、 道、神は一人もいない。私が先程言ったが,我々が一般に認 識した宇宙は,実は言ったのは小宇宙の範囲だ。私は前回ア メリカに来た時講じたことがある,二十七億余りの銀河系の ような星系,大体この数字で,三十億未満だろう,こんな一 つの範囲で一つの宇宙を構成したと言った。しかもこの宇宙 は外殻があり縁があるのだ。それでこれが我々普通言った宇 宙だ。しかしこの宇宙以外を超えたら,更に遥かに遠い処に は又宇宙がある。一定の範囲の内にまだ三千のこのような宇 宙がある。しかもこの三千の宇宙は外に外殻があり,又第二 層宇宙を構成している。第二層宇宙以外に又大体三千のこの ような第二層宇宙のような大きな宇宙があり,外には外殻が あり,又第三層宇宙を構成している。正に小粒子から原子核 を組成し,原子核から原子を組成し,原子から分子を組成す ることのようだ,正に微視的粒子からより大きな粒子を組成 した系統の中の状態のようだ。私が言ったこの宇宙はやはり この一個の系統中の状態だ。この言語では形容する方法が無 い,人類の言語でははっきり表す方法が無い。この一状態下 にはこのような一つの状態だが,それはとても多くとても多 くの系統で,多くて多くて無数の原子から分子を組成したこ とのように多い,宇宙を遍く分布することのようだ。君は言 って見てこの宇宙の中で一体我々のこの小宇宙ほどの大きさ のような宇宙がどれくらいあるか,誰でもはっきり言えない 。私は先程第二層宇宙、第三層宇宙のことを講じた,釈迦牟 尼佛が第六層宇宙から来たことを講じた,これはただこの一 体系の中で,このような一つの体系の中で言ったことだ。小 粒子から大粒子を組成し,大粒子からより大きな粒子を組成 したことのように,これは同じ体系にあるのだ。しかしそれ はこの一つの粒子体系だけではないよ,それは物凄く多くの 不同層次の粒子が天体を遍く分布しているのだ。

 この宇宙は非常に複雑だ,私はスウェーデンで学習班をや った時少し具体的に言った。私は八十一層宇宙まで言った, 実は八十一層ばかりではない,人類の数字では計算できない のだ。人の数字では最大なのは兆だが,佛が計算する数字で は最大なのは劫だ,その一劫はつまり二十億年に相当し,二 十億年で一劫を構成している。劫でもこの宇宙にはどれくら いの層があるか計算できない,どれくらいの層の天ではなく て,どれくらいの層の宇宙なのだ,それがこんなに厖大なの だ。人のことを言うとそれはあんまりにも小さい。私は前回 講じたことがあるが私は地球も一粒の塵埃だけに過ぎない, しかも小さくて全く言うに足りないと言った。それでもこの ような一つの範囲の内には却って数え切れない非常に複雑な 空間構造がある。この空間構造はどんな形状なのか?私は前 回にも言った。我々人類はどの層の空間に生活しているか? 分子の最大な一層粒子で組成した表面物質の中に生活してお り,分子と星球との間に生活している。星球も一つの粒子だ よ,厖大な宇宙の中でそれも小さくて全く言うに足りない一 粒の塵埃だ,銀河系も小さくて言うに足りない一粒の塵埃だ けだ。この宇宙について,私が今言った小宇宙も小さくて言 うに足りない一粒の塵埃だけだ。我々人類の目で見られる最 大な粒子は即ち星球だが,人類の見られる最小の粒子は,即 ち分子だ,我々人間は分子と星球との間における粒子の中間 に生存している,即ちこの空間の中にいる。君はそれはとて も広いと思うが,実は一つの角度を換えて言えば,それは却 って非常に狭くて小さい。

 私は又一つの角度を換えて講じる。原子と分子との間の空 間は,一層空間ではないか?あまり理解しやすくないようだ 。私は君に教えるが現在の科学家は原子から分子までの間の 距離は二十万の原子が配列して始めて分子に達することがで きるという一つの距離であることを知っている。しかし物体 が愈小さくなる時,つまり粒子は小さければ小さいほどその 全体の体積は大きい,それは一つの層次面で孤立の一つの点 ではないからだ。それでこの分子は非常に大きい,しかし物 質顆粒、粒子は大きければ大きいほどその空間の体積は小さ く,その全体空間の体積は小さい,君が若しあの空間の中に 入ったら君はそれはもっと広い空間だと発見するはずだ。勿 論君はその状態に符合して始めて君はその空間に入れる,君 は人の思惟、人の概念、人の現有物質世界に対する認識とい う方法によりそれを認識すれば,君はどうしても納得できな い,君も入れない。人類は自分の科学は如何に発達し如何に 発達していると言ったが,とても可哀相だ!それは全然分子 との一層空間を突破していない,別の空間を見られないのに ,人はまだ自分で得意になって喜んでいる。原子から構成し たその空間を見られることは言うまでもない,私が皆さんに 教える,これは一つの大きな空間体系の区分だ,原子と原子 核の間は空間で;原子核とクォークの間は空間で;クォーク と中性微粒子の間はやはり空間だ。この物質の一番本源まで どれくらいの層があるか,人類の数字でも、佛が言った劫の 数字でも計算できない。

 人類は本当に物質を認識したいなら,それは人の現有のこ の人の知識の内で理解しかできない。人は永遠にもこの宇宙 の物質の最基礎のものは何か知れない,永遠にも探求できな い,だからこの宇宙は永遠にも人にとって迷なのだ。勿論高 級生命は永遠も知らなく、常人はこの宇宙を知る方法は無い と言うことではない,修煉者は方法があるーー君は修煉する ほかはない。人類の技術手段を通じて佛の境界ほど大きな能 力に達し,そんなに多くの層の空間の宇宙を見て取ることに は,人類は永遠にも達することができない。人は七情六欲各 種の執着心の存在があるので,若し本当に佛の境界に達した とすれば,それで星球大戦、宇宙大戦が起こる。しかし神は 人類にこうならせるはずはない,だから人類の科学が一定の 程度に達した時は人類にとってきっと危険なことだ,人類の 道徳はそんなに高いところに達するはずはないので,人類の 文明は壊滅されてしまう。これは不公平ではない,人自身は だめだ,人の道徳は追い付かないものだ。しかし逆に言えば ,人は若し道徳が追い付けるなら神となるのだ,人の手段で 探求することも要らないのだ,目を開けて見ると全て見られ る。この宇宙は取りも直さずこうなのだ,君はそれを知るに は君はこの境界を超えなければならない。

 私が今言ったことは不同の大きな粒子で構成した世界だ。 実はこれらばかりではない,我々の分子という現有の空間の 中にも,まだ多くの空間があるよ,人は全て見られない。私 は先程言ったが,分子から組成された最大な一層顆粒は,即 ち我々人間の一番表面で構成した物質,鋼、鉄、木材、人の 身体、プラスチック、石、土,乃至紙,等等等等なのだ。人 類の見たこれらのものは,最大な一層の分子から組成した最 大な一層粒子で構成したもので,見ることができるのだ。若 し分子で組成したものは最大な一層粒子のその層の空間粒子 より少し小さい時,君は見られない。それではこの分子は又 より小さい一層粒子空間を組成できる,この分子それが組成 した最小粒子は表面との最大粒子までの間には,とても多く とても多くの層の空間の存在がある,つまり不同な分子から 組成した大小粒子の存在は,この非常に複雑な不同な分子空 間を構成している。人々はこの人が突然どうしてすぐ消えた か,突然他のある所から出現したと言うことを信じない。若 し彼の身体は全て分子から構成したものだが,その顆粒は非 常にきめ細かいなら(修煉を通じて達することができる), 彼はこの空間を通り過ぎることができる。彼が突然消えてし まう,君は彼を見つけられない;彼が突然あそこから又出て 来た,とても簡単だ。

 今この空間の構造を講じた,前回よりもっと詳しく講じた ,もっと多くのことは人に言ってはいけない,人としてはそ んなに多く知ってはいけない。私が講じたこれらのことは, 人はそれを全部探測することは不可能だ。人類の現在の科学 は実質上一つの誤りの基点に立って発展して来たのだ,宇宙 に対し、人類に対し、生命に対しての認識は全部間誤った, だから修煉界では我々修煉の人は全然現在の科学を認めない ,それは一つの誤りだと思う。勿論常人は皆このように学ん で来たのだ,こんなに多くの学科に分けられた,皆さんは全 て各学科の中で成績を上げた。しかしその基点は誤りだ,だ から君達人類が認識したのは永遠にも相当に真相を逸れる一 種の認識だ。

 人類の科学に対しての認識は永遠にも探索しているのだ。 盲人が象に触ることのように,この科学は現在こうなのだ。 それは象の足,或いは鼻に触ったので,それは科学はこうな のだと言う。実はそれは真相の全部を見られない。私は先程 何故このように言ったのか?人類は現在人の発展は進化して 来たのだと思う,しかし進化論は全然存在しないのだ。我々 は修煉界では人が自分を貶している,我々は人が自分を猿に 結び付かせることを見てとてもおかしいと思う。人は全然進 化して来たのではない。ダーウィンが彼の進化論を出した時 はぼろ百出だった,最大な一つの欠陥としてはつまり猿から 人まで進化し、古生物から近代生物まで進化したことに,中 間の過程はすべて無い。人だけでなく,生物、動物も無い。 これは如何に解釈するか?実は不同の歴史時期に,人は不同 の生存状態がある。つまり彼の生活環境は,全て当時の人に 適応するため生じたのだ。

 この問題を言うと,私は又現在人の観念を話す。道徳の堕 落のため,多くの観念も少し変化を発生した,過去多くの予 言家も言ったことがある,一定の時になると,人は妖精のよ うに装う。あの髪の毛を赤色に染めた者は,真ん中にただ一 束を残して,両側を全部剃った。一定の時期になると,人は 犬に如かない。多くの人は犬を息子、子供とし,それにミル クを飲ませる,着させた着物は全部高級なもので,有名なブ ランドだ,カーを推して,それを息子と呼ぶ。町に多くの乞 食者がいる,私もこのような人に出会ったことがある,これ はアメリカにもあるよ,手を伸ばして,“Guarter を一つく ださい”と,彼は確かに犬に如かない。ところが私は皆さん に教えよう,この地球には若し人がいないとしたら,何でも 無くなるのだ。人がいたからこそ,この地球の中に万事万物 が出来た。一切の動物、生物、植物は,皆人の為に生き,人 の為に滅び,人の為に成り,人の為に用いるのだ。人が無け れば,何も無い,六道輪廻転生もすべて人のためだ。地上の 一切も人の為に造ったのだ。現在これらの観念は皆反対の変 化が発生している。動物と人とは平等になることはどうして いけるか?!現在動物は人体に憑いて人の主となった,天は 許さないよ!これはどうしていけるものか?人は一番偉大な ものだ,神に修成し、佛に修成することができる,しかも人 の源は皆高層次から来たのだ。しかしこれらの生物は,多く がここで造られたもの,地球の上で造られたものに属する。 ついでにこの問題を言ったのだ。

 私が今言った進化論について,我々の見るところではそれ は存在しないのだ。人類は長い歴史歳月の中で,何回も不同 時期の文明を経た。人類の道徳が悪くなった度に,その文明 は壊滅され,最後に残された極少数の人が生きて来て,少し 史前の文化を継承し,又一つの石器時代を経て発展して来た のだ。石器時代も一つの時期ではなく,数回の石器時代が経 った。現在科学家は何らかの問題を発見した,多くの考古に より発見した物は同じ時期のものではない。しかし進化論の 思想により無理やり当てはめるなら,現実の前で彼は解釈で きない。我々は,人のいるこの地球上に,不同歴史時期の人 は,不同時期の文明を

残していたと気が付いた。古エジプトの金字塔は,現代人は 皆エジプト人が造ったものだと言う。それは現在のエジプト 人と全く関係が無い。人、民族が自分の歴史に対する認識は 全て誤ったのだ。金字塔とエジプト人と全然関係が無い。史 前のそのある文明の中で造られたのだ,その後の一回の大陸 変更の中であの金字塔が水の中に沈んでしまった。第二次文 明が間もなく出て新大陸を造られる時に,それが又水の底か ら昇って来た。その一まとまりの人はとっくに存在しなくな った,その後に又現在のエジプト人があった。エジプト人は その金字塔の機能を発見してから,又幾らかの小さなこのよ うな金字塔を造り出した。その中に棺を置くことはかなり良 いことだと発見して,彼はそこに棺を置いていた。新しく造 られたものもあるし,古いものもある。現在の人は彼も一体 何の時期のものかをはっきりさせる方法が無い,歴史は全て めちゃくちゃされた。

 マヤ人の文化は,現在のメキシコ人と関係があると多くの 人も言っていた。実はメキシコ人と全然関係が無い,彼らは ただスペイン人と土着の人との混血児だけだ。しかしマヤ文 化は前の一つの歴史文明時期にあるもので,その人類は既に メキシコで壊滅されてしまった,ただ少数の人が逃げ離れた 。しかしこのマヤ文化はモンゴル人と直接の関係がある。こ れらの詳細について言うのを止める。人類は彼の歴史的渊源 を知っていない,白人も同じだ。前回の大洪水の中で,前回 の人類文明は壊滅された時は大洪水だ。地球上の海抜二千メ ートル以下の高山は全部水没された,二千メートル以上の所 に住んでいた人だけが生きて来た。ノアの方舟の事は本当の 事だ。その大洪水のため西方文化は完全に壊滅されてしまっ た。東方文化も壊滅におかれた,しかしヒマラヤ山と崑崙山 の一帯に住んでいたその山の人は,農村の人のような人は幸 いにも免れた,崑崙山の中に住んでいた中国人が生き残され た。その時,東方文化はとても発達していたので,過去の河 図、洛書、易経、太極、八卦等々を継承した。人々はそれは 後の人の誰々が造ったものだと言ったが,それはすべて彼が それを変えて新たに持ち出したものだ,全然彼が造ったもの ではない,全ては史前文化だ。それで中国にこれらのものが 残されたが,それは歴史の発展の中で,それだけでなかった ,古代の時に残されたものはもっと多かった,伝わっている 間に益々少なくなった。それでそれは一つの内涵がとても深 い、歴史がとても渊源なこのような一つの民族だ,それが中 国だ。しかし白人の文化は全部その大洪水に水没されてから ,何でも無くなった。当時ヨーロッパ大陸の縁にまた一つの 大陸があった,それも沈んだ。それは彼の一番発達した所だ ったが沈んだ。だから白人は一つの何も無く、如何なる文明 も無い状態から新たに発展して来たのだ,それが彼の現在の この科学だ。

 中国の古い科学はこの西方の実証科学と違う。多くの考古 学者も私とこれらの問題を探究した,私は全部彼らに教えた ,彼らもこの問題だと思った,彼らは解釈できない困惑な問 題が沢山あったからだ。私は先程人類の宇宙に対する認識で は,より多くの事を認識することは全く不可能だと言った。 現在多くの科学家は,彼の研究した基点が誤りだ,特に彼は この一領域の中で少しの成績を上げたので,彼はそれで放下 できなくなった,彼は彼の認識したものに定義を下し,一つ の枠を下した。我々の在席の者に留学生、博士、修士が沢山 おり,思想は開放的なものだ,君達は:彼らの定義は彼のこ の境界の範囲の内では正しいと気が付くが,君は一旦彼の認 識を超え、彼の境界を超えた時にそれは又間違いのものだ, 人を束縛するものだと発見するはずだ。本当に造詣の有る科 学家なら彼はこれらの枠を突破する勇気があるものだ。アイ ンシュタインを含めて,彼の認識したこの境界において言っ たことは正しいが,この境界を超えたらアインシュタインが 言った事は間違いだと発見する,この道理ではないか?何故 かと言うと人が昇華し上がった時,君の思惟状態がいよいよ 高層真理に近づく時,いよいよ高層に近づく時,低層の認識 は間違いだ,こうなのだと発見する。

 人類の物質に対する認識はそれは誤りのものではないか? 人は現有の最大の一層分子粒子で構成した表面物質と星球の 間の空間の中に立つだけでも,彼はもうはっきりさせること ができない,この中で,彼は発展し来たり発展し去って,こ れこそ絶対な科学だ,これこそ物質の唯一の認識だ,これこ そ一番先進的なものだと。それはただこの厖大な複雑な宇宙 空間の中でそんな一つの小さな小さな小さな小さな微粒子の 中で物質世界を認識するだけだ,しかもまだ一つの小空間の 中に局限されている。私が今講じたあの星球の構造について それはまだ一つの系統だよ、君は一つの小さな小さな系統、 一粒の塵埃の系統の中で,無数億のその空間の中で認識した そんなほんの少しの空間は,一つの小さな小さな空間の中で 認識したものだ,君に言わせればそれは正しいか?だから人 類の科学はその発展その認識の,最初の基点はもう正しくな いものだ。人類の起源、生命は言えばもっと複雑なので,言 うのをやめる。更に多く言うと生命の起源を言うことになる から,あまりにも複雑だ,しかも多く言い高く言うと人は信 じなくなる。人は畢竟人の思想なのだ。私はここで言って, 神は聞いたら彼は信じる,彼は神の思想であるからだ。彼は 彼のその境界の中で見た,彼の思惟方法は人のとはっきりと 異なっている。

 私は今こう言ったがはっきり分かったか?私は皆さんに聞 いて見る,私はこう講じたら,皆さんは聞いて分かったか分 からなかったか?(拍手)私は常にこういう一句の話を言う ,昨日も一再この問題を強調した,つまり縁のことだ。我々 の多くの人は何時もこの大法をより多くの人に紹介したいと 思う。ある人に君は紹介してあげると,彼はすぐとても素晴 らしいと思う,しかも彼は主動的に学ぼうとする,これは縁 があるかも知れない。ある人に君は紹介してあげても,自分 の肉親を含めて,彼も聞きたくない,彼も信じない,君は如 何に言っても彼は信じない。私は皆さんに教えるが,彼は縁 が無いかも知れない。勿論この状態は縁という一種の形式で 構成したのではない,又ある人は彼の悟性がだめだ,或いは 業力が大きくて引き起こしたのかも知れない。

 私は今日単独にこの縁のことだけを講じる。縁とは何か? 過去私もこの問題を解釈したことがある。修煉界では一再に この縁のことを強調している,この縁はどのように構成され たのか?実は私は皆さんに教えるが,我々が修煉界で言った 縁について,それは一つの短い歴史時期ではっきり言うこと ができない。それは人の一生,ひいては数生,ひいてはもっ と長い時間を超える。この縁そのものは絶えることはない。 何故絶えないか?先程私は業を返すことを言ったころ,如何 に人の生命を見るかということに言い及んだ,一つの生命を 見るには彼の生命全体を見なければならず,彼の一生だけ見 てはいけない。まさに君が眠ることのように,今日と昨日は 昨日は君だと君は認めないか,それはだめだ!だから彼の縁 はなかり長い時間に及ぶのだ。良い物は継承できるが,悪い 物も継承できる。それはつまり,人と人との間の因縁関係と いう物も絶えない。一般の人が言った縁は,大多数はこの親 縁のことを言うのだ,つまり夫妻の縁のことを言うのだ。こ れについて言ったのは割合多い。実はこの夫妻の縁について 私は以前講じたことがある,これは常人の中の事だ,縁のこ とを言うため私はそれに言い及んだ。それは如何に促成され たのか?往々にして大多数もこうなのだ:この人は前の一世 にその人に恩があった,その人は恩返する方法がない,前の 一世は官がとても小さいかも知れない,とても乏しいかも知 れない。彼が受けた彼の恩恵はとても大きい,彼は心の中で 恩返しをしようと思う,それで夫妻の縁を促成するかも知れ ない。それに又ある人は前の一世に彼を愛慕していた,或い は二人は互いに愛慕していた,しかしその縁が無ければ一家 になるわけにはいかない,それで来世の夫妻の縁を促成する ことができる。人の願望はとても主要であるからだ,君は何 が欲しいか,君は何がやりたいか,君は私が佛を修したいと 言ったら,それで佛は君を助けるかも知れない。何故なのか ?この一念はあんまりにも貴重だ,こんなに苦しい環境でも 君は佛を修したいものだ。しかし人は魔になりたいならそれ も阻むことができない,彼は一途に悪事をやるなら君はどの ように阻むか?君は言ってもそれは聞いてくれない,やはり やる。だから人のこの願望はとても主要なものだ。

 それに又何か親戚友人や,生徒弟子や,又人と人との間の 恩と仇で結んだその縁も,君が一家になり,或いは一つの群 体になり,社会で社会の連絡を発生していて,この人と人と の間の矛盾、恩怨に報いがあるように促成させることができ る。これは全て縁だ,皆これを指すのだ。それは一世で来た のではない,数世のもの或いは前世のものであるかも知れな い,これはこの種の情況を指すのだ。我々は又,このような 一つの関係があるので,つまり人にはこの一生の中で彼の恩 々怨々があり,彼の親戚友人があり,彼の妻と児女等等等等 がある,それでこの一つの群体に恩怨の存在があるのはとて も可能だと発見した。彼に良い,彼に良くないやら,彼は彼 に恩返しをするやら,それでこれらのものは来世の群体の転 生を促成することができる。しかし彼は一緒に来ること、皆 が一緒に転生することではない,そうではないのだ。世に来 ることは早いか遅いか不等なのだ,年寄りのものも年の若い ものもある,どのみちこの一つの人群れの中でそれは何らか の連絡を発生するはずだ,前後に転生して来るのだ。一つの 群体でなければ或いは縁の無い者,君と関係の無い者なら町 で歩いても,世と隔絶となる人のようで,彼と如何なる関係 も無いと君は発見するはずだ。君もこのような人があり,君 達はそれぞれ違った人のようだと発見するはずだ。これは君 のその群体から来た者ではない,彼と如何なる因縁関係も無 い。だから往々に転生して来た時は皆同じ群体で,前後違う 時間に来たのだ。父母となった者もあるし,児女となった者 もあるし,友人となった者もあるし,敵となった者もあるし ,恩人となった者もある。私が先程言った縁はこれだ。

 勿論修煉の者もこの種の縁から走り出ることができない。 君は修煉するから,一人の人は修煉すると,過去は一人の人 は修煉するなら祖先までも徳を積もって,皆受益になると言 われた。君は修煉して,君は佛に修成したら,彼らの罪業は 返さなくてもいい,皆佛になると言うことではない,これは いけない。つまり君が修煉している時に君がこの一世に法を 得ることを知っていて,君の周囲の人には君の肉親が転生し た者があるかも知れない,恩々怨々があるこれらの人がある が君は彼らに法を得させるかも知れない,このような一種の 関係を促成するかも知れない。勿論この修煉は肉親の情を重 んじないのだ,肉親の情を重んじない以上彼はこの局限を打 開して,独修し或いは単独に伝える,彼は自ら人を選択し, 人を選ぶ,過去歴代もこのように修したのだ。普度はつまり 我々が今日言ったこの縁だ。私が言ったこの縁は,我々の在 席の者と関係があるのだ。君は縁があって法を得たのはとて も可能だ,それではこの縁はどのように促成されたのか?こ の中でかなり多くの人は法を得に来、目的があって来たもの だ,又親戚友人、各代弟子があるかも知れないし他の縁でも たらしたのだかも知れない,でも修煉は常人の情を重んじな い,このものはない。私は常に言うが私はある人は法を得に 来たのだと言う,それなら過去皆,自分はこの苦しみに耐え に来てこの法を得るというような願を立てたかも知れない, その中にこのような要素もある。だから私は常に言う,私は 一時的なこの世での過ちの念のためで今回法を得ることに影 響しないで,さもなければ君は永遠後悔しても補うことがで きないと言った。事実上基本的にこの縁という糸はしっかり 引かれていて,取り残された者は無く,皆法を得ていると私 は見た。ただ精進程度は違うだけだ。

 次に私はまた一つの問題を言う,つまりこの修煉形式のこ とだ。昨日私も簡単に少し話したから。我々の一部の学員は 結婚するか結婚しないかの問題に言い及んだ,ある人は結婚 したくない,山に入って修煉したいと思っている,ある人は 違う見方を持っている。これについて我々の大法の修煉の中 で沢山の弟子がこの一念を抱いている。しかし誰でも知って いるように,私が伝えたこの法は主に常人社会の中で修煉し ,人自身の主意識、主元神を高めることを修煉目的とするの だ。君ははっきりしながら苦しみに耐えており,君は君の利 益は傷害を受けたことをはっきり見たが君は心を動かない, 君は君自身を修しているではないか?この法は君が得ないな ら誰が得るか?若し真に山に入って修煉してこの矛盾を避け るなら,それで修は遅くなり,長い歳月の中で少しずつ少し ずつそれらの心を磨き去らせる,それでこの法を得なければ 修した者は副元神であることはとても可能だ。君は深山の中 で修煉するのでこれらの条件を具備しない,打坐し、入定し ,長期的に入定するかも知れない。そのような状態の下に君 自身は修煉しているか修煉していないか君自身ははっきりし ないのだ。君自身は真にこの複雑な環境の中で向上を得てい ないからだ,それがこうなのだ,出家の人も主元神を修する ことができるが,常人社会こそ人心を一番錬磨できる所だ。  過去我々の聞いた修煉方法について,歴代に如何なる一つ の宗教であろう、如何なる一つの修煉方法であろう,人々に 伝えられて来たものは全て山に入って廟に入って修煉し,世 縁を断絶することを唱えていたのだ,親の情も要らない,父 母が廟に入って訪ねに来たとしても知らん顔をする。“あな たは誰を捜すか?”“私は君を捜すよ,君は私の息子だ”。 “あ,阿弥陀佛,施主あなたは人を捜し間違った”,私は何 々と申します。彼は既に法名を変えた。“私は佛門の弟子で ,あなたの息子ではない”,真に世縁を断絶した。今の和尚 なら言うまでもなく彼も修しようとしないばかりか,その上 に金を稼いで家に送る。真に修することは世縁を断絶するの だ。和尚は出家すると人として見てはいけないと言われてい るではないか,取りも直さずこの道理だ。彼はもう神だ,半 神だ。現在は修することができないが,往々にして多くの人 もこの古い修煉方法という形式の障害を受けるので,このよ うな一つの方法を採用して大法を修煉したい。将来は行ける が,今はこの条件を具備していない。私が今日伝えたこの法 は目下このような一種の形式で修煉しかできない,師父とな った私も山の中にいない。だから君は何時も修煉のことを思 うと山の中に走って行くやら,修煉のことを思うと出家する やら,修煉のことを思うと結婚しないやら,修煉のことを思 うと常人の状態を変えるなどのことをしてはいけない,この 様子ではないのだ。修煉方法はとても多い,八万四千法門の 中で我々のこの一法門がこのように修煉するだけではない。 だから私が言ったことは我々は過去何種類かの修煉方法と伝 統的な観念の影響を受けてはいけないことだ。私が今日君に 教えものは一種の全新的な、真に君に一番速く得度させるこ とができるという一つの修煉形式だ。将来は将来の修する方 法がある。実は私は本の中に言っている,私の言うことは人 は修煉したいなら,口で言うほど易しいか?!修し来り修し 去ったが実は君では無い,君はまだ知らないよ!。

 私が皆さんに教える,古い過去に,多くの神も人の主元神 はあまりにも度し難いということに気が付いた,すると副元 神を度する方法を取った,一つにはこのように度したら良い と思われた,彼もこのように度したら良いと思った,それで 彼らは皆このように度する,それでこのような一種の、認可 されたこのような一種の人を度する形式を形成した。しかし それは却って人に対して不公平だ,この人が修煉しているの に度された者は他人だ。それは不公平だからこそ彼は敢えて 世に公せず,敢えて人にも知らせない。私は人にそれを暴露 してあげた。何故か?私は人が本当に法を得られるようにす るからだ。この種の状態を変えて,君自身に修させることが できる。同時に,若し人はこのように修煉すれば社会に対し て益がある,君自身が向上した時君はきっと社会で一人の良 い人だ,これより良いことはない。だから私はこのものを転 換してやった。しかし一部の神は彼も長い歳月の中でこのよ うに修し上がったのだ,副元神を修煉することのように修煉 し上がったので,彼らも私が君達にこのものを伝えることを 阻んでいた。君達は皆考えて見てこの法の伝えはとても容易 ではない,得ることもとても容易ではない。最後に衆神、佛 、道は私がどのような事をしているか分かった,効果は非常 に良いことを見た,今は皆分かった。

 私が中国で当初法を伝えた時はとても難しかった,勿論今 は伝えたら割合易しい,特にアメリカに来てから,君達が法 を聞くことは既にとても容易いことになった。先程私は我々 のこの修煉形式は過去のその観念の影響を受けてはいけない ことを言った,我々はこのように修するのだ。勿論君達とい う一まとまりの人は修煉が終わってから,将来には将来の人 の修煉する状態がある。将来の人はこんなに多くの法を知る はずはない,これは一つの特殊な歴史時期なので,我々はこ のものを伝えた。もっと将来の人は私は誰かを知ることもで きない,彼に形象も残してあげない。あの録音テープ、録画 テープのことだが,君は今録音録画を取ったけれども,君は 将来全て保留できず,全て消さなければならない。過去釈迦 牟尼佛は弟子を率いて修煉する時弟子に貯金と物ストックを させず,彼らがこの物質利益に対する執着の心を起こすこと を恐れるので,何でも貰わせない,ただ一枚の袈裟、一つの 乞食椀だけだ。しかし往々に人に捨て難い心が沢山ある。あ る時期に多くの人はこの乞食椀を貯えた。ある人は“私のこ の椀は銅製のものだ,私のこの椀は玉のものだ,私の椀は見 栄えが良い,私のこの椀は銀のものだ”と言った。ある和尚 は椀を沢山貯えた。釈迦牟尼佛はそれで言った,君達はもし この種の物に対して執着する心があれば,君達は家に帰れば いい,家の中に何でもあるから,君はためたり、貯えたりす ればいい。何故一つの乞食椀も放下できないか?出家の人は 何でも放下しなければならない,何故乞食椀をためるという 一念も捨てないか,財宝も無くなったのに,椀にも執着する か?釈迦牟尼佛がこの意味を言うのはつまり,この一念、僅 かな執着でも彼に残させず,捨てなければならず,彼にこの 心を持たせない。

 過去釈迦牟尼佛時代に和尚のその椀はとても小さかった, 一回しか食物をもらえなかった。今の和尚は,そんなに大き なものを持っている。過去は鉢を持ったのだ,今は磬を持つ のだ,一つの磬を持ってもらいに来る。君は彼に飯をあげた ら彼は全然要らない,彼は金を欲しがっている。物質利益に 対し,金に対する追求の心がそんなに強いのは修煉なのか? 私は皆さんに教える,この金は修煉人に対しての最大な障害 だ。今言ったのは出家人のことだ。しかし大法修煉は物を重 んじなくて心を重んじる。常人社会で仕事をしながら修煉す るので,君に金をいくら持っても恐れることは無く,君の金 に執着する心を捨てないとただ恐れるだけだ。君の家は金の 煉瓦で建てられたのだが,君の思想には無く,それを重く見 ない。常人の中で修するなら,どんな仕事をする者もいる, 商売をすれば金を稼ぐ,心の中に無ければかまわない,それ を重く見ていないなら,有ることと無いこととは同じことだ ,君はそれでこの関を越えた。君の家は相変わらず家屋が金 のものであっても,かまわない。我々はこの心を捨てること を要求する,修煉は物質上から何かを取り捨てることではな い,こうしてこそ始めて世間で修煉することに符合する。皆 修煉して,人は全て何もしないなら,この社会では何を食べ るか?これはだめだ。我々は人心しか重んじず、人心を直接 指す,真に君の心性を向上させることで,物質上から何かを 取り捨てることではない,この一点は過去の伝統的な修め方 とはっきり区別しなければならない。ただ君にこの心が有る か無いかを見るには,却ってこの方面から厳粛に試練をしな ければならない。

 私はただこの修煉人のことだけを言う,我々のこの大法の 中で修煉すれば,我々はこのような道だ。君はこれらの心を 淡泊にしなければならない。将来専門修煉の人に至っては, ただ一つだけの椀を持って乞食し、行脚し、雲水をしに行く 。世間の苦しみを嘗め尽くして,君は始めて圓満となれる。 将来出家人はこのように修するのだ。

 苦しいことを言うと,私は皆さんに言うが,人は修煉しよ うとする時はきっと苦しいし,苦しい目に会うはずだ。大法 を修することにも福運があるのだが,修煉すると磨難がある はずだ,この一点は確定的なことだ。しかし往々に人は僅か な苦しみに遭い、僅かな苦難に遭ったら彼は悪い事だと思う 。“私はどうしてこんなに具合が悪いか,そんなに具合が悪 いか”。君はもし一生も気分が良いなら,私が君に教えるが 地獄に行くに違いない。君は一生気分が良いのは言うまでも なく,君はこの一生病気に罹らなければ,百年の後,百パー セントに地獄に行くのだ。生きていることは業を造るのだ, 君は業を造らないことが不可能だ。君は口を開けると,君が 他人に傷害したかも知れない。口から言い出した話は,知ら ずに他人に傷害するはずだ。君は彼に言って,彼は気にしな いが,他人が聞いたから,彼に対して傷害があるかも知れな い。人が生きていて,食べた物,ひいては道を歩いても君は 生物を踏み殺すはずだ。勿論,我々が言ったように,人が世 に生きている以上君は業を造るはずだ,若し君は病気に罹ら なければ,君の業は消すことができない。人は苦しい病気の 中で,本当に君の業を消している。消したら治るはずだ,往 々に一回酷い病気に罹ったが,暫くの時間が経って君の健康 が回復してから,自分は顔がつやつやとして,やることが何 でも順調だと気が付くはずだ。君の業が消されたので,それ は福運−−徳に転化するはずだ。君は苦しまれたから,それ で往々に何事をしても割合順調で,容易く出来る,人はこれ らを見分けられないので,人は僅かな苦しい目に遭うと悪い 事だと思う,実は,苦しいことは何の恐れるところがあるか ?!人は少し苦しんでも,心を決めて耐えて,過ぎてから君 は見れば何をしても違う。私に言わせれば人が修煉して苦し いということは何でもないことだ。君はもし放下できれば, 君が圓満となると保証する。より少し高く言えば,君は若し その生死の念を放下できれば,君が確かに神になったのだ!  過去阿弥陀佛が言う,私の佛号を読めば,極楽世界に往生 することができる。どうして可能か?彼の意味は表面で理解 できるものではない。佛号を読むのなら極楽世界に行くこと ができるが,人々は皆表面から佛のその話を理解する。佛法 は不同な層次の内涵があるものだ。君が彼の佛号を読むこと が,煉功なのだ,頭の中に何も無く,阿弥陀佛という幾つか の文字しか無いほど読んで,一念が万念に代わって,思想が 全部空になったほど読んで,何も無くなったが,阿弥陀佛し か無い。念佛をする時は無数の執着心と各種の邪魔があるは ずだ,君は支え切れるか?全ての執着を全部放下し,心念が 空になるとそれで修煉の目的に達する。君は佛号を読むのは 又佛に対する一種の崇敬だ,君が極楽世界に行こうとするか ら君は読んだのだ,無論その極楽世界の佛は君にかまいに来 る,君は佛を修しているからだ。中の内涵はとても深い。あ る人は言う,死ぬ前の時に阿弥陀佛を読めば極楽世界に行く ことができるが,どんな様子なのか?君は本当に生死の一念 を放下できた時,君は確かに行くことができる。人と神との 区別は,その差がここだ。生死を放下できれば君は神だ,生 死を放下できなければ君は人だ,取りも直さずこの区別だ。 我々は修煉し来り修煉し去って,何の執着をも放下させたら ,それは生死までも放下できたではないか?人は一遍に生死 を放下できれば,それでは何の執着にまだ執着できるか?既 に法を得た以上,私は生死までも恐れない,命まで無くなっ てもいい,それなら何事にまだ執着できるか?それはこの道 理だ。人が死ぬ前の時,怖くてたまらない,“ああ,私がす ぐ死ぬ,息を引き留める”,彼は何の気持ちだろう?しかし ある人は死ぬ前の時に恐れは無く,口ではまだ阿弥陀佛を読 んでいる,君に言わせれば彼は極楽世界に行かないはずはあ るか?何でも放下できた,生死は彼にとっては全然その概念 が無い。人の一念は長期的な修煉を基礎とするものだ。常人 の思想は極めて複雑で,何の心もある,生死の瀬戸際はどう して恐れないか?私に言わせれば大道は至簡至易だ,多くの 事はとても簡単だという,しかしそれを分解して詳しく言え ば,沢山沢山言い出せるはずだ。ところが若し直接に君に教 えても,君は出来ない,人々はそんなに深く理解することも できない。皆文字面、表面から理解して行くので,皆さんに 法を講じなければならない。