法輪佛法(シドニでの講法)


李洪志




 自己紹介はやめましょう,皆さんはどのみち私を知っている,私
が李洪志です。ずっと皆さんと面会したいと思うが,色々な原因の
ため,このような機会は無かった。今回は私がわざわざ皆さんと面
会しに来たのです。何故かというとオストラリアという所では,以
前この大法を知っていた人は今日ほど多くなかった,しかも多くの
学ぶ人は法を学ぶことに注意しなかったし,認識も割合皮相だった
ことを私は知っている。現在皆さんが私の伝えたのは何だか分かっ
た時,又皆さんと面会しに来ると私は思っていた。あなたが知りた
いものは多くが書に書いてあるからだ。私という人はこのような一
つの習慣がある:私は人が私に修煉中分からない事を聞くことがす
きです。この法に対して何であるかまだ分からなくて,この法は何
であるか私に聞きに来ることに至っては,私は。ュ。ュ,どう言ったら
いいか,かなり浅い認識では講じればあなたにすぐ分からせること
もなかなか容易ではない。若しあなたは本を読めれば,法を学べれ
ば,一定の了解が有って,それからあなたは又私にあなたの向上に
対し意義のある何らかの事を聞けば,私は勉強にしろ,或いは修煉
にしろ,あなたに対して有益なのだと思っている。私は今日機縁が
成熟したと思うから,私が来た。
 在席の者は一部分はまだ学んでいない;一部分はやはり動作を煉
るだけで,法を学ぶことを重んじていない;一部分の人は割合少し
良く学んだといったことを私は知っている。私は何故皆さんに法を
学ばなければならないと要求するのか?この中にこのような一つの
関係があるからだ。皆さん知っているように中国というところで,
気功は大面積的に常人社会の中で普及されて既に二十何年間の歴史
が有った,“文化大革命”の中期、後期からもう高潮に入った。し
かし従来この気功は一体どんなものであるか講じる人はいなかった
;この気功の出現した幾らかの功能;出現した幾らかの現代科学で
は解釈できない現象,一体どういう事だろうか講じる人もいない。
それでは気功が出現した目的は何の為であるか?知る人はもっと少
ない。歴史上従来気功が出現したことがないよ,何故今日この気功
が出現したのか?そして一つの修煉のもので社会で伝わっている。
何故こうなるのか?何故かを知っている人はとても少ない。勿論こ
の気功が初期中国で普及された時,多くのかなり良い気功師が出て
来て,彼らはこの事をやる目的はつまり人民の身体の健康の為に少
し良い事をやることを知るだけだ。このような一つの簡単な考え方
と認識だけだ。   
 この気功はそれがかなり長い時間,何十年普及されたが,ずっと
この気功の真実の意味は何かを知っている人はいない。それゆえ私
は《轉法輪》という本の中に気功界の中の幾らかの現象と気功は何
故常人社会の中で流伝するか,気功の最終目的は何をするのか,全
部この本の中に書き入れた。だからこの本は一つの系統的に,人に
修煉させることができるこのような一冊の著作である。多くの人は
くりかえし本を読むことを通じて,彼はこういう一つの特点がある
ことを体得できる:この本をあなたは何回読むにもかかわらず,あ
なたはいつも一種の新鮮感があるように思う;あなたは何回読むに
もかかわらず,同じ言葉においてもあなたも不同の認識がある;あ
なたは何回読むにもかかわらず,中に読み取っていない内涵がまだ
沢山あると思う。それは何故こうなるのだろう?つまり私は人が修
煉でき、人がどのように修煉するか、この宇宙の特性等等多くの天
機と見なすもの,全部彼を系統的に帰納してこの本の中に書き入れ
た。修煉する人に対して彼を圓満させることができる,歴史上従来
このような事をやる人はいない。多くの人はこの本を読んで,沢山
のものは天機で,沢山のものは秘中の秘で,従来人類に知らせてい
ない,人類が従来知ることも不可能だと思っているものを,私は全
部この本の中で明らかにした。勿論私はこうするのは私の目的があ
るのだ。若しある人は勝手に天機を漏らし,無責任にこれらの事を
やって,このかなり高い層次の理を一般の理論として普通の人に勝
手に言って聴かせるなら,それでは彼は天機を漏らすのに等しい,
彼は悪い事をするのに等しい,それでは彼は必ず罰が当たる。
 私がこの事をするのは目的があるのだ。一つはかなり浅い層次か
ら言えば,多くの人はこんなに長年気功を練ることを通じて,この
気功はかなり高い内涵があるのを知っているし,人にとても高い境
界の中まで修煉させることができ,甚だしきに至って人を圓満させ
ることができることを知っている。しかし,彼がこのような真正の
修煉方法を捜せないのに苦しむ,そして一般の気功は又 
病健身のものに属して,修煉できない。それで多く
の人は寺院の中に行って居士となり,和尚を師と仰ぐということを
私は見た。勿論ここまで言ったが,私は一言言うが釈迦牟尼佛は彼
の法は末法時期に人を度する事ができないと言った,これは釈迦牟
尼佛が言ったのだ,この事は多くの原因で促成したのだ。だから多
くの人はあなたが寺院の中で或いは気功の中で如何に修めても,あ
なたは自分が何も得ていず,昇華していず,真に向上を得ていない
と思っている。その訳で私は皆さんはこういう一つの向上する心が
あるが,出る道を探せないことに苦しむことを見て,私が皆さんは
とても苦しいと思う。それで私は真に高層次上へ法を得たい人を連
れようと思う。これは一つの主要な原因である。
 しかし正法は伝え出されると人心、道徳が回復するのを要求し,
人が善に向かうのを要求する。それでは修煉人に対する要求は一般
の常人という道徳水準を超えなければならない,だから彼は人類の
社会に対して有益であるのだ。勿論多くの人はこの本を読んだ後,
彼は真に修煉しに行くとは限らない,それでは彼も人をなす道理が
分かる。彼はこれから一人の良い人になるかも知れない,彼は修煉
できないが彼も一人の良い人になるだろう,それなら彼は社会に対
しては有益なのだ。正法は伝え出されると必ずこうであるのだ。実
は歴代に於いて世界に出現した正教,例えばキリスト教や、天主教
や、佛教や、道教や,ユダヤ教を含めて,彼は皆人心を善に向かう
ようにさせることができる,同時に真に修煉し上がりたい人に法を
得させることができ,圓満に修煉させることができる;暫時修煉し
上がれない者を,常人社会の中で彼を一人のかなり良い人にならせ
ることができ,以後の機縁を創造して将来再び修める,彼がこうな
るはずだ。
 我々は宗教ではないが,私は気功高層次上のものを伝えているの
で,一般の気功ではないのだ。明白に言えば気功それも常人中のも
のではない。この気功は何であるのか?気功は即ち修煉である。し
かしそれは最低層次の修煉のものである,太極拳を含んでいる。太
極拳について皆さんはとても良いと知っている,五十年代中国で既
に大面積的に流行した,これは明代の張三豊が伝え出したものであ
る。しかし伝わって来たものは手段、動作であるだけで,心法を伝
え出していない,つまり彼はそれのその修煉を指導する、各層次で
如何に向上するかという法を人に残していない。だから太極拳は 
病健身という境界の中に局限することしか
できず,やはり高層次上へ修煉できない。それは一つのかなり良い
ものであるが,心法を伝えていない。当時心法はあるが,残されて
いない,後の人に残されていない。我々が今日伝えたこの法は系統
的にこの事をやったのだ。
 無論我々のここに少なくない新しい学員がいる,ある人は聴いた
ら私の言ったのはとても高いと思うかも知れない。皆さんが知って
いるが各種の宗教も人に善に向かうようにさせ,人をも天国に行か
せる。佛教は,無論極楽世界も天国であるよ。歴史上どの大覚者も
,どの聖人も如何に人を一人の良い人にならせ,一つの更に高い境
界の基準に達して始めて,天国に行くことができると言ったが,全
てその中の道理を言っていない。これらの大覚者は,イエスでも,
釈迦牟尼佛でも,老子でも等等が皆二千年前ごろという時間に出現
したのだ。それではその時の人と今日の人とは違う。その時の人の
思想は割合単一で,割合純朴で,割合善良で,思想はそんなに複雑
ではない。その時の人の思惟状態は今と違うので,彼らがその時言
ったその法はその時に役割を果たして,言い出したものはその時に
完全に人に圓満させることができるのだ。時間の推移に従って,現
在人の思想が益々複雑に変わり,思惟方法も変化が発生した。それ
では過去これらの大覚者の伝えたこれらのものを,現在の人は理解
できない。だから現在の人はこれらの経書を読んでは,皆その中の
真の意味が分からないと思っている。今日私が法を伝えて気功の形
式で伝えているが,皆私が佛法を伝えていることを知っている。あ
る人は考えている:あなたは佛法を伝えているが釈迦牟尼佛の言っ
たこの話と似ていないではないか?若し私は釈迦牟尼佛の言った話
で説くなら,それでは今日の人は誰でも分からない。釈迦牟尼佛の
言語は当時の人類の言語であったので,当時の人は皆分かる。それ
では今日佛法を説くには,現在の言語で皆さんに説いてあなたは始
めて分かれる。ある人は又考えている:あなたが説いたことも佛教
中の経文ではないじゃないか?釈迦牟尼佛は原始七佛の言った法を
言っていたのか?弥勒が若し世に下りれば釈迦牟尼佛の言った話を
重複するか?一切の人を度する覚者が言ったのは皆自分の証悟した
法で,人に伝度するのだ。
 この本については私はその中に沢山沢山の修煉に関するものを書
いた。一人の修煉は常人から歩み始め,ずっとあなたが圓満となっ
た時まであなたの修煉を指導する法がある。私は確かに一件の前人
が従来やったことのない事をやった,更に大きな宇宙の根本大法を
伝えた,あなたは古今中外の本を遍く繙いてもこれらは無い。私の
言い出した道理は宇宙の特性で,佛法の根本で,彼は真実に私の言
語で彼を表し出した。多くの人は本を読んでから皆一つの考え方が
あった,又ある人は言った:李先生はどれほど大きな学問があるの
か?彼は古今中外,天文、地理、歴史、化学、物理、天体物理、高
能物理、哲学、かなり多くの範疇のものも概括し入れたようだ。人
々は先生の知識はとても広く深いと思っていた。実は常人中の学問
と比べれば,私はとても恥ずかしくて如かないと思う。しかしこれ
らの理論はあなたが世界上のあらゆる本を遍く繙いても,あなたが
世界上のあらゆる学科を学んでも,あなたは学ぶことができない。
あなたは世界上のあらゆる学問を学んでも,あなたはやはり一人の
常人だ。あなたは人という一層次の中の人だけで,幾らかの常人の
知識を多く掌握したのに過ぎず,やはり常人だ。しかし私が言い出
した道理,私が言い出したものは彼は常人という層次面上のもので
はなく,常人という層次面を超えるのだ。だからその中の道理は常
人の知識から来たのではない。法は宇宙ひいては常人社会の一切知
識を含めているのだ。
 私はかなり分かりやすい常人の言語と気功という一種の最低の修
煉形式で,最低から最高まで宇宙の一切法理を表現した。この本を
一回目読み終えてから,彼は如何に人に一人の良い人をなす道理を
教えたのかとあなたは発見できる;若しあなたはこの本をもう一遍
読んだ時,あなたは彼が述べたことは常人の道理ではなく,彼は一
册常人の知識を超える本であると発見できる;若しあなたは三回読
めるなら,あなたは彼は一册の天書であると発見できる;若しあな
たは更に読んで行けばあなたは好きで片時も手放さない。中国で現
在ある人は既に百回以上読んだがまだ読んでいる,しかも彼は完全
に手放せない,中の内涵はあまりにも大きい,読めば読むほど多く
、読めば読むほど多い。何故なのか?私は天機をかなり多く漏らし
たが,表面上では修煉しない人は見いだせないのだ。修煉する人,
あなたが絶えずに本を読む時こそ,あなたはその中の内涵を見いだ
せる。一人の人が修煉中に於いて彼は絶えずに昇華しているからだ
。何故この本について初めにあなたは彼は如何に一人の良い人をな
す道理を講じるのだと思うか?二回目読んだら違うようになり,彼
が昇華するか?人は修煉しようとするなら,彼は先ず常人のこの基
点に立って修煉しなければならないからだ。次第に彼の心性を高め
て,更に高い基準に達する。あなたが第一の層次の基準に到達した
時,それではその一層次の法によってあなたの修煉を指導しなけれ
ばならない;あなたが第二の層次に到達したら,あなたは第二層次
そのような法によってあなたがその一境界の中での修煉を指導しな
ければならない。あなたが絶えずに昇華する時,それでこの法はそ
の境界の中でやはりあなたの修煉を指導できる,つまりあなたがど
んな境界まで修煉するにしてもまだその一層の法によりあなたの修
煉を指導しなければならないで最後に始めて圓満できる。私のこの
本の中に全てのこれらのものを貫いている,だからあなたが真に修
めるのならあなたはこれらのものを見いだせる,あなたが修煉し上
がるように指導できる。この本の中の内涵は相当に大きい,あなた
は一万回読んでもあなたが修煉し,ずっと圓満となるまで指導でき
る。
 圓満の問題に言い及ぶと,皆さん知っているがイエスが言う:お
前は私を信じれば天国に行ける;佛教の中で言うには:佛を修める
なら極楽世界に行ける。勿論彼らは皆とても簡単に言ったが,人が
実際の修煉を通じて始めて行けることを強調していない。しかし実
質上宗教も修煉である。ただ釈迦牟尼佛でも良かろう、イエスでも
良かろう皆一つの状況を見た,我々修煉界の中で一句の話があり,
それは:修は自分にあり,功は師父にあるという。これも常人が知
らないことだ。常人は:私は動作を通じて煉るなら,自分にどれほ
どの高い功が長じることができると思う。我々の見るところではこ
れは冗談である,全然不可能なのだ。勿論,あなたは修煉したいな
ら,師父は真にあなたに責任を負わなければならない,身体に多く
のこの種の機制を下してやり,また種のように多くのものを埋めて
やって,あなたが始めて修煉が出来る。しかも修煉の過程中師父は
あなたに世話を見、あなたを見守り,業力を消し除いて,あなたを
助けて功を演化することをして,あなたは始めて修煉して上がって
来られるのだ。宗教の中でそれは修煉を言わない,何故なのか?イ
エスはお前が私を信じれば修煉し上がって来られると知っている。
現在宗教では修められないのはつまり彼らの言った話の真の意味を
理解できないのだ。多くの人も:私はイエスを信じれば,百年の後
私が天国に行けると思っている。皆さん考えて見て,我々は天国に
行くにはどのように行くのか?我々は一つの常人の心を持っている
,あなたの七情六欲,あなたの各種の執着心、争闘心、誇示心,ま
ったくこの常人の良くない心はあまりにも多い。あなたを佛のとこ
ろに行かせるなら,あなたは佛と争い、喧嘩するかも知れない,あ
なたの常人の心は除去していないからだ。あなたはこの大菩薩はこ
んなに奇麗だと見ると,邪念を動かすかも知れない,これは許すの
か?無論許さないのだ。それで常人社会の中であなたのこれらの執
着の、汚い、良くない心を除去して,あなたが始めてこの境界の中
に昇華することができる。修めるのは行ける、信じるのも行ける,
しかし懴悔してから再び誤ってはいけない,こうして益々良くなり
,天人の基準に達して始めて天国に行ける,実はこれが修煉である
。
 ある人は言う:私はイエスを信じたら天国に行ける。私に言わせ
ると行けない。何故行けないのか?現在の人もイエスの言った話の
真の意味を理解できない。イエスは如来この層次の中のもので,佛
という境界の中の覚者でもある。彼の言った意味が常人は理解でき
ないのだ。あなたは絶えずに彼の方法によって修めるこそ,あなた
は始めて段々に彼の言った意味を会得できる。例えばイエスが言う
:私を信じれば,お前は天国に行ける。その実はあなたは私のあな
たに教えた良い人をなす道理に従って実行しに行って始めて,真に
私を信じることで,あなたはそれで始めて天国に行ける。さもなけ
れば彼はそんなに沢山の話を言ったのは何をするか?!あなたが懴
悔の時あなたはあなたがとても良くできた,心態はとても良いと思
った。しかしあなたがこの教会堂のドアを出ると,あなたは我がま
まにし,常人の中であなたは常人よりもやったのが良くないなら,
あなたはどうして天国に行くのか?あなたのその心は全然向上を得
ていない。イエスが:お前が私を信じれば,あなたは天国に行ける
と言ったからだ。つまりあなたは彼を信じるのは,あなたが彼の言
うことによってやるのは真に信じることである,そうだろう?他の
宗教の中でもこの道理である。
 釈迦牟尼佛が言った幾らかの話を後の人は彼を帰納して経書を書
き上げた。その後人は経書を読む多少、佛教知識を掌握する多少を
修煉としている。実は釈迦牟尼佛が在世の時全く経書が無い。そし
て経書は500年以後で始めて系統的に帰納して出来たもので,釈
迦牟尼佛が当時言った話とは全く離脱した。しかしその時人にこれ
くらいしか知らせることができなく,あまりに多すぎてもいけない
,これも必然なことである。釈迦牟尼佛が晩年に最後に:私は一生
何の法も講じていないと言った。釈迦牟尼佛は確かにこの宇宙の法
を講じていず,真、善、忍という特性の常人社会の中,或いは彼の
如来その一層次の中にある表現を講じていないからだ。本当に講じ
ていないのだ!それでは如来佛が言ったのは何か?彼の言ったのは
彼の過去世の中で修煉して証悟したものと過去世に転生中に幾らか
の修煉の情況、修煉物語りと彼の一部の法の具体的表現に対する認
識である。経書はとぎれとぎれに整理して出来たものであるので,
系統的でもない。それでは後の人は何故釈迦牟尼佛の言った話を佛
法としたのか?一方はこれは人の認識である;もう一方は釈迦牟尼
は佛であるので,彼の言い出した話は佛性を持つのだ。佛性を持つ
話はそれでは人にとって即ち一層の佛理であり,即ち佛法である。
しかし彼は確かに系統的に修煉の原理、宇宙の特性、人が何故向上
し上がれるか等等を言い出していない。本当に言い出していない!
だから私は前人のやったことのない事をやった,私は一つの大門を
開いた,私は一件の更に大きな事をやったと私は言う,つまり私は
全ての修煉の道理、圓満の要素を全部言い出した,しかもとても系
統的に言った。これは何故とても高い神が:あなたは人に一部天に
上がる梯子−−《轉法輪》を残してやったと言ったかのわけである
。
 ここで私が釈迦牟尼佛より如何か、如何かと言うのではない,私
はこの心を持っていない,私は常人の情の中にいず,世間の名利に
対する執着が無い。私はこのものを伝え出した以上,私はあなたに
責任を負わなければならない,私はこの道理をはっきり言ってやら
なければならない。私は何もあなたから求めない,私はあなたから
お金を一銭でも取らない,私はただあなたに善に向かうことを教え
るだけだ。ある人は私に問って,言う:先生よ,あなたは我々にこ
んなに多くのものを教えて,我々にこんなに多くのものをくださっ
たが,あなたは何を求めるのか?私は言う:私は何も求めない。私
はあなたを度しに来たのだ,私はあなたのその善に向かう心,向上
できることが欲しいだけだ。我々は人わね,人になるのは彼は目的
ではないことを見たからだ。現在人は皆常人社会の偽りの現実の中
に迷って,人になるにはこうしなければならないと思う。特に現在
の人類社会の道徳観念が下へ物凄く滑っている。皆もこの流れの中
で下へ滑っており,社会が全体に下へ滑っている。それでは誰も自
分が下へ滑っているのを知っていない。ある人は自分は他人より少
し良いから私は良い人だと思う。実はあなたは滑って来たこの基準
によって自分を量るのであり,皆良くない中で他人より少し良いの
だ。若しあなたが修煉できれば,あなたは元の人類社会という境界
の中に戻って,高くなくても良いが,あなたは振り返って人、今日
の人類社会を見ればとても恐ろしいと発見できる!本当にとても恐
ろしいのだ!あなたは見て現在のこの人類は本当に十悪が揃うのだ
。
 天上の大覚者達は,佛でも良かろう,道でも良かろう,神でも良
かろう,彼らは既に今日の人を人として見ないのだ。この話は少し
絶対に言ったようであるが,無論まだ良い人がいる。しかし彼らが
指したのは全人類、大面積なことである,本当にこうであるのだ。
過去人が廟の中、教会堂に行って懴悔する時,イエスや、天国の人
は本当に彼の話を聞いていると感じている,そして脳の中にこの感
応のこだまがあって,彼の問題を答えているようである。しかし今
日の人にはこのような感覚が無い,佛を拝む人も佛の存在が見えな
い。何故なのか?人類社会の人は益々悟らないようになり,人類社
会の人が益々敗壊になるので,それで神もかまわないのだ。現代の
人は業力がとても大きい,益々悟らなくなるので,悪い事をして彼
に罰が当たった時,彼は偶然だと思う。私が見たが,人類の道徳基
準が物凄く滑っているが,人々は皆無意識的にこの流れに従って下
へ滑るのだ。一部の人の佛性、本性はまだある,私のここ数年来の
伝功を通じて,多くの人が修煉して上がって来た,しかも修煉した
層次はかなり高い。開悟した者があるし,漸悟の中にある者がある
,ある人は既に果位の中で修煉しているのだ。私はとても嬉しく思
う,私はこの事を無駄にやってはいない。私は人に対しては責任を
負うのであり,社会に対しては責任を負うのであり,私はこの天機
をも無駄に漏らしていない,人に修煉し上がらせた。
 私が先程言った問題は人の生きる目的は人になる為ではないと言
ったのであり,言えばかなり多くの人はまだあまり理解できないか
も知れない,彼は人としてはこう生活すべきだと思う。そうだ,あ
なたが母胎から生まれた時皆は皆同じで,まだ別の空間の存在があ
るのが見えない,それで信じもないのだ。そして現代の人は過度に
現代の科学を信じる,しかし現代の科学は一つの不圓満で,不完全
なものである。この宇宙の中で彼の認識程度はとても浅い,つまり
とても低いことだ,このような一つのものである。それでは人が過
度にそれを信じるなら人に一つの最大な危険に直面させる:つまり
人の道徳は徹底的に打ち壊される。それで上の世界は道徳観念の無
い人を人として見ないのだ!人類の外形があるものは人だけではな
いよ,鬼や、猿や、ショ−ジョ−や,これは皆一つの脳を具備して
,四肢の存在があるのだ。人と言うのは人が世の中に生きている以
上彼は人の道徳規範があり,人の道徳基準の存在があり,人の生存
の形式があるべきだ。これらから離れると神はもう人を人としない
。しかし人は皆自分が如何に生活すれば良い,如何に発展すべきだ
と思う。しかし人類社会は高層生命に制御されるのだ,人類は永遠
に技術を通じて佛の境界に達することができない。そうでなければ
本当に星球大戦が起こるのだ!だから争闘心、嫉妬心、七情六欲を
揃って持っている人類の技術を更に高い標準に達させない。
 人の大脳は百分の七十余りは使うことができないのだ,現代医学
でもこの一点を認識できた。何故なのか?人類の知恵は抑制を受け
るのだ,それでは何故佛は彼が大知恵、大神通なのか?彼は何故何
でも分かるか?大知大慧であるか?つまり私が先程言ったこの道理
である。ある人は私のこの本の中で及んだ科学知識面がとても広い
!と言った,先生は沢山の知識を持って,沢山の大学に入ったので
はないか?私は入っていない。何故なのか?私と皆さんとの差異は
つまり私の脳が全部開いている,しかしあなた達は違う。この世間
で,哲学でも良かろう、天文学でも良かろう、物理、化学、人類の
歴史等等について,人々がとても複雑だと思うが,それは実はとて
も簡単で,何れも佛法範囲の内の最低の人類のそれしきのもので,
何れも一つの理である,つまりこの宇宙の特性と物質がこの一層次
に存在する形式で引き起こしたのであり,それしきだけである。し
かし人類の知恵はもうそれを容れられない,人の大脳は閉鎖されて
いるので,容れられない。どうすればいいか?もっと多くのことを
知ろうとしても,人の大脳に入れられないよ,それではあなたは物
理を学ぼう、あなたは化学を学ぼう、あなたは天文を学ぼう、あな
たは高能物理を学ぼう、あなたは哲学を学ぼう、あなたは歴史を学
ぼう,あなたはこれを学ぼう,あなたはそれを学ぼう。このように
なるのだがこの一門の知識でも,人自身もこの一生の中でやはり全
部掌握できない,だから人類の知識はとても可哀相なのだ。
 私が先程言ったが,あなたが学んだ知識はいくら多くても,あな
たが大学で教授、導師になって,いくら名望があっても,しかしや
はり一人の常人である。あなたの知識は常人という層次面を超えて
いないからである,そして我々現在人類のこの実証科学は完璧では
ないのだ。例えば現在のこの科学ではそれは神の存在を実証できず
,それは別の空間の存在を実証できない。彼は別の空間の生命と物
質存在の形式が見えない;彼も人類は道徳という物質の人の身体に
於ける体現があることを知らない;彼も人類はまた業力という物質
の人体周囲に於ける表現があることを知らない。それで人々は皆現
代の科学を信じて,現代の科学はこれらを実証できない。そして道
徳善悪の事等科学以外のものを言うと全て迷信と見なされる,実質
上は現代科学のこの棒をふって,我々人類の一番本質的なもの人類
の道徳を打つのではないか?こうではないか?彼は徳の存在を承認
しないし実証もできないので,彼はそれは迷信だと言う。人類の道
徳観念を本当に打って無くしたら,それで人は心法の制約が無くな
り,道徳の規範が無ければ,人は何でも敢えてやる,どんな悪い事
でも敢えてやる,それで人類の道徳を絶えずに下へ滑るように促す
。これが科学の一番足りない一方面が引き起こした作用である。
 私が言ったように一人の造詣のある科学者は,彼は多くの感情で
理知に替わる人のようなその固執の認識ではない:現代の科学を頑
な枠の中に固定して,実証科学以外のものは全て科学ではないと思
う。皆さん考えて見て:人類が認識できていないものを,我々は科
学の方法で認識できた時,それは科学になるのではないか?それも
科学になったのではないか。人類は絶えずに自分を完璧にし,絶え
ずに新たに自分を認識するので,科学は始めて発展でき,最後に真
に宇宙を認識する。現在の実証科学の発展の形式は非常に拙く、非
常に緩慢である。本当に盲が象に触れることのようで,彼は全宇宙
の物質存在の形式を認識できず,宇宙特性の存在を認識できない。
それでは彼は少し触れたでも全部だと思う。彼らはこの象の足にし
か触れない,彼は:おや,科学はこうであるのだ,これは真に生命
、物質を認識する科学である。彼は全体のこの象はどんな様子か見
えない。だから宇宙は無数の不同の時空から構成したということを
認識できず,別の空間と別の生命及び物質形式の存在を認識できな
い,従ってそれらの頭脳が簡単で頑固な人に全部迷信だと言われる
,これは我々人類の道徳を下へ滑らせる最も肝要な一つの原因であ
る。多くの人はそれで科学の棒をふって一番古い、一番本質な人の
徳性を打つ。危ないよ!人は徳が無くなったら,神は人を人として
見ないのだ。若し天は人を人として見ない時,それで人は淘汰され
,新たに発展する。
 ある人はこう考えている:我々人類は進歩しているのだ,猿人か
ら今日まで発展してもうかなり輝かしいのだ!しかし私はあなたに
教えておく:歴史上史前時期に,十万年以前,或いはもっと前、も
っと前の以前,ずっと億年以前まで,この地球の上にずっと高度文
明の存在があった,ただ不同時期に壊滅されたのに過ぎなかった。
何故壊滅されたか?それは物質上で発展がとても速く,技術上で発
展がとても速いが,それの道徳は追いついていず或いは破壊された
からである。それでそれは更に存在するのを許さず,壊滅された。
現代科学の認識によって言えば物質運動は法則があるのだ,それが
一定形式まで運動した時,それは必ずもう一種の形式が出現する。
例えば地球がこの宇宙運行の中で,どの星に衝突され壊されたかも
知れない。何れにしてもどんな原因かを問わず,現在科学者は確か
に,我々の星球の上に沢山の古い文明遺跡が存在したことがあると
発見した,しかもこれらの文明遺跡は現在の時間まで何れも割合遠
い,あるのは何十万年以前のもの,何百万年以前のもので,また何
千万年以前のものもある。各時期に存在した文明,残った遺跡は何
れも違って,全ては同じ時期のものではないので,一部の科学者は
この問題を思考している。ある科学者は既にこのような一つの論点
を提出して,言う:史前文明の存在があり,史前文化があると,こ
れは科学者が言ったのだ。それでは我々修煉界ではもっとはっきり
と見える,確かに本当に我々今期人類文明の前に,沢山の期の人類
の文明が存在していた。彼の道徳が敗壊したので,勿論我々が見た
ことはこうであるが,その後この文明が存在しなくなった。壊滅さ
れた古ギリシャ文化から当時人類敗壊、堕落の遺跡を見つけること
ができるのだ。
 ある人は:我々人間は猿人から進化して来たのだと言った。実は
私は皆さんに教えるが,人は全然猿人から進化して来たのではない
。ダウィンが提出した理論によると:人は猿人から進化して来たの
だと言う。彼が当初この揃い理論を出した時,彼はおどおどして出
したのだ。彼の理論は手ぬかりだらけで,完璧ではないのだが,却
って人に受け入れられた,ずっと今日まで至った。皆さん考えて見
よう,彼が提出した猿人から人まで進化するという進化中間の過程
,千百万年というような一つの過程は,見つけられない,無いのだ
。何故人と猿との間のこの種の人の存在は無いのか?他の物体に人
だけではなく,彼の言う進化の動物は全て中間過程は無い。そして
オストラリア大陸に存在している種と他の大陸に存在している種と
は何故異なるか?彼は全部解釈できない。この手抜かりだらけの進
化論は却って人に受け入れられた。これこそおかしいのだ!
 実は我々の見るところでは人は全然猿人から進化して来たのでは
なく,各時期に各種の生物が存在していたのに過ぎない。人類の生
存している地球は,大陸プレ−トが変移するのであり,変更するの
である,地質学者はアジア、ヨ−ロッパ、アフリカ洲、南アフリカ
、北アフリカの陸地を大陸プレ−トと言う。大陸プレ−トは常に変
更するのであり,この上の文明が水の底に沈むはずだ,それでは他
の大洋の中から一つの陸地が昇って来るかも知れない,このように
絶えずに変更しているのだ。現在人々も太平洋や、大西洋や、イン
ド洋や,多くの大洋の底に古い高くて大きな建築があり,文明の存
在があったと発見した。しかし調べたら何れも何十万年、何百万年
、更に久しく遠い年代に存在したものだと発見した,少なくとも我
々の現在人類が知っているが,この何十万年の間に大陸プレ−トは
変更が発生したことがない。それではそれが何時水の底に沈んだの
か?それはきっともっと前に、何十万年前或いはもっと久しい以前
に沈んだのだ。だから不同の大陸プレトが変更した時,上の種は違
うもので,進化して来たものではない。似る処があるが,同じ種で
はない。絶対違うのだ。
 勿論私は佛法を説いている,だから常人中の理論とは同じではな
い,我々は更に高い認識で,本当に人類を認識するのだ。私は皆さ
んに教えておくが人は猿人から進化して来たのではなくて,宇宙中
に生じられたのだ。皆さん知っているが中国に道家の太極学説があ
る。この太極学説は陰陽二気を唱えている。陰陽二気が生じない時
には混沌状態で,それは無極と言う。それからそれが太極を生んで
,陰陽二気が有った,それから太極は万事万物を生む。これは道家
の理論である。私はかなり科学の道理があると思う。実際は私は一
種の情況を発見した,勿論これは私が発見しただけではない,この
宇宙の中の厖大な物質が運動の下に生命を生じられる。我々はこの
物質を見られないが,それは存在しないとは限らない。例えばこの
空気について,人の目はそれを見られない,それは存在しないか?
それは存在するのだ。空気よりもっと微視的な物質はあるのか?多
くてたまらない。もっと微視的な物質よりも微視的な物質は,やは
り多くてたまらない。これらの厖大な物質はそれは何故このように
生存できるか?実は皆生命の存在である。如何なる物体も生命があ
る,我々常人という空間に表現しないのに過ぎない,あなたはそれ
でそれの生命の存在が見えない。あと私はそのわけを言う。如何な
る物体にも生命がある。この種の厖大な物質は運動下に生命を生じ
た,しかしこの種の生命は更に高い層次の中にいる時に多くのは無
形であり,少数は人類の形状である;或いは動物の形状である:或
いは物質の形状である;或いは植物の形状である。
 それでは何故人のこの一歩に至ったのか?最初は人のこの一歩は
無かったものだ。この宇宙物質はその運動の作用下に生じた生命は
皆宇宙特性に同化するのであり,つまりそれは宇宙中のこの法理に
同化し,真、善、忍に同化するのである,それは真、善、忍の中か
ら生じたからである。それでこの生命が高層空間に多く生られじた
時,彼の生存環境は複雑になり,彼は彼らの社会の生存形式が有っ
た。正に我々人類の社会のように,人がどの様に生存するか,彼は
彼の社会形式の存在がある。それで彼は彼の社会形式が有った時,
これらの生命は次第に変化が発生して,複雑になった,あるものは
私念を生んで,宇宙特性のその一層に於ける生命に対する要求から
逸れる,それで彼はこの境界の中にはいられなくなる,だから彼が
下へ落ちることしかできず,低層に落ちて来た。それでは彼は低層
で又更に良くなくなった時,それで彼が又下へ落ちることしかでき
ない。このようにこの生命は長い歴史の歳月の中で絶えずに良くな
く変わり,次第に一層空間に,一層空間に下へ落ちて,人類のこの
層の空間の中に落ちて来た。従って低能の生活をして,低能の方式
で後代を育てて繁殖している。
 しかし当初の時は人類という層の空間が無かったのだ。それでこ
れらの覚者、高級生命は人の為に又一つの空間を造り,一つの一番
迷いの空間を造り,人のこのほんの少しの本性が失うかどうかを見
,彼がまだ帰られるかどうかを見ようと思った。こうしてこのよう
な一つの空間を造った。当時ただ人に、生命に一つ最後の機会を与
えるだけで,あまり多くの問題を考えていなかった。ところが後に
なるとこの空間はあまりにも特別だということを発見した。この空
間中の生物は皆他の空間を見られず,他の空間の生命を見られない
からである。しかし宇宙の他の空間中に於いては皆別の空間の景象
が見える。如何なる一つの空間の生命は,彼の身体も空間の中を飛
んで,漂って行ったり漂って来ることができる,如何なる一層空間
の生命は彼が身体を大きく変えたり小さく変えたりすることができ
る。現在科学者は:人の思惟は物質で,電波のようなものだと思っ
ている。電波についてあなたは無論それは物質だと認める。ところ
が別の空間の中での発見では,それはこんなに簡単ではない。人の
思想はあなたの想像した物を生むことができる,あなたの思った物
は現実に成ることができる。人は能量が無いので,それが生まれて
しばらくすると彼は散らされてしまう。しかし能量を持っている大
覚者、天人、高級生命は彼が思い出した物は,確実に存在する。そ
れではあなたは何が欲しいなら,思う時につれてそれを生じること
ができる,だから過去の人は言う:佛は,欲しいものなら何でもあ
る,大自在ですもの。それらの生命は皆このように存在しているの
だ。しかし人類はこの空間に推されるとこのような存在になった。
 皆が何れも母体から出たのだ,自分はまだ悪くはないと思ってい
る。ある人は商売が上手くできた;ある人は大官になった;ある人
はとても自在に生きているから,他人より強いと思う。実はあなた
もとても苦しい!あなたはあなたが以前どのように生きていたのか
を知らないからだ。例えば,宗教中の言うことでは:人が生きてい
ることは苦しいことだと。何故なのか?あなたが母体から出た時,
あなたはもうこのような一つの分子から構成した物質身体が有った
。別の空間の中では彼は分子で構成したこの層の身体を持っていな
い,彼の一番表面の身体は原子から構成したのだ。しかし分子で構
成した表面物質はこの空間を造った。人の肉体を含めてこの分子で
構成したものだ。この層の物質からこの身体を構成した,生まれる
とあなたはこの肉体が有った,あなたにこのような一対の分子で構
成した目を与えた,あなたは他の空間が見えない,だからあなたは
この迷いの中にいる。それであなたは迷いの中にいて宇宙の真相が
見えない,あなたは井戸の中に座って天を観るように生きているの
ではないか,その自身はもうかなり可哀相に生きているのだ。その
上に人はこの身体が有ってから,身体は痛みを恐れ,寒くなったら
いけない,暑くなったらいけない,渇いたらいけない,あなたは歩
いて疲れたらいけない,どのみちあなたに多くの不自在をもたらす
,多くの苦痛をもたらす。しかもまた生老病死の存在がある,常に
病に罹る,あなたがとても自在に生きているとあなたは思うが,実
はあなたもその苦痛の中で他人より少し強く,苦痛が少し少ないの
に過ぎない,あなたはそれであなたはとても自在だと思った。人は
取りも直さずこのように生存しているのだ,だから人はこのような
生存の環境の中で次第に人の本性を失って,益々神の存在を信じな
くなった,その上に実証科学の不完璧のため,人が人の道徳基準を
失ってしまい,彼が一番危険の境地に滑って来た。
 しかし,人類社会には又一つの非常に大きな良い処がある:彼は
苦しいので,彼は修煉できる。何故佛は彼はいつもその佛界の中の
佛であるか?彼は何故もっと高く向上できないのか?あの菩薩は何
故佛に修成できないのか?あなたは少しだけ苦しみを嘗めたくても
探す処も無い。彼は迷いの中で彼のこの佛性を固められて,彼は始
めて修められる。彼のところでは彼はまだ迷っていず,彼は何でも
見えると。何でも見えるなら修めても何にもならない。だから修は
先にあり,悟は先にあり,見は後にある。ある人は私は見えたら,
私が修める;私は見えないなら,私は修めないと言った。若し皆に
全て見させたら,常人社会はそれで人類社会でなくなり,神の社会
となったのだ。百パセント,一人でも引けを取らなく,誰も修める
,十悪を犯して容赦できない、いくら悪い人でも修めに行くのだ。
あなたが考えてご覧彼はまだ人類社会であるか?つまり人が良くな
く変わったのでこの環境の中に落ちたのだ。あなたは帰りたいなら
この二つの要素を具備しなければならない:一つは苦しみに耐える
ことで,一つは悟ることだ。悟るということわね,イエスは信を重
んじる,東方では悟を重んじる。あなたはこれらのものを失ったら
,あなたは修められない。しかし往々にして修めると人は何故とて
も修め難いと思うか?実は修煉は難しくない,難しいことは常人の
心を放下できない。歴史上に何が佛法か人に教えたこともない。人
々は皆釈迦牟尼佛の説いたものを系統的な佛法とした。皆さん考え
て見て,この厖大な宇宙はそれは相当に完備で,相当知恵なのだ。
釈迦牟尼佛はただ佛理の一つの少部分を説いただけだ,そして釈迦
牟尼佛も自分の知っているものを人に全部説いてやらなかった,彼
は人に人の知るべきことを説いてやっただけだ,だから現在人類社
会に残した佛法は佛法の中のほんの少し、ほんの少しだけである。
私が先程言った,私は人類社会に残したものはとても多く,私は前
人が従来やったことのない事をやったと私は言った。私が書いたこ
の《轉法輪》は,言語が規範ではない,現在の規範の言語では更に
高い層次,更に大きな内涵を含められないので,私は口語の方式で
書いたのだ。
 これほど多く説いたが。今日は時間が十分ありそうで,私は皆さ
んに少し多く説きたいと思う。しかしここに在席している一部の人
は私があまりにも高く言ったら受け入れることができないかも知れ
ない。例えばある人は全然学んだことがなく,とても良いと思って
聞いて見に来た;一部の人は何か少しのものを得ようと思うかも知
れない;或いは私が何を演じるかを見に来る,いろいろな心態を抱
いて来たのだ。私は今日若しここであなたに演じてみせると,あた
なはホホと笑って,魔術を見、手品を見るように,あなたは私と法
を大切にしないのだ。佛法を伝えることもこのようにするのを許さ
ない。私はただあなたにこの佛法を説くだけで,信じるか信じない
かあなたの勝手だ。しかし彼の威力はとても大きい,私は私が人に
与えようとするもの,人に与えた修められるものを全部その部の法
の中に容れた。私の録画テプ、録音テプと私が書いたこの本を,あ
なたは見さえすれば,あなたが感じられる;あなたは見さえすれば
,あなたは身体を浄化されて,あなたを病の無い状態に達させる;
あなたは修めさえすれば,あなたは常人の見えないものが見える;
あなたは修めさえすれば,あなたは常人の体悟できないものを体悟
できる。益々境界が高くなり,益々美妙になる,全てその本の中に
ある。しかしあなたは修めなければあなたは見えない。あなたは私
が一遍見るだけで全部見られるようにしたいと言ったら,不可能だ
!あなたはあなたのその境界の中で,あなたのその理解の程度の中
でものを見られるだけだ。更に美妙なものはあなたは修め上がりさ
えすれば,あなたは絶えずに深く掘り下げて学び、深く掘り下げて
修め、深く掘り下げて見さえすれば,それで始めて体悟でき,見ら
れ,知れるのである。
 私が言ったのは高すぎて,多くの人は必ずしも理解できない。私
はこうしたいと思う,私は二年来既に系統的に法を説いていなかっ
た。私は人に残した法を既に全部残している。私はひいては授業を
しても人に録音させない。何故なのか?多くの人は彼が新奇を追求
しているのだ。先生は又何かを講じた、又何かを講じた,彼はこれ
らのものを追求していて,着実に修めることではない。私が人に与
えた修煉のものは《轉法輪》だけで,この本は系統的な法である。
他に私が説いたことは《轉法輪》を解釈するに過ぎなく,皆補助の
ものである。録音した後社会で伝えて,実修する者に邪魔をもたら
す。その部の《轉法輪》は低いところから高いところまで全部系統
的なもので,しかし私が現在説いたものは現在の人に対して説いた
ものだけだ。
 私はまた一つの問題を強調したい:つまり我々修煉人は専一を重
んじる。私は皆さんに教えておくが,衆家の長所を取るという話は
常人の中の言語で,修煉界の言語ではない。技術を学ぶ場合,誰の
技術が良いなら誰のものを学ぶ,これは問題はない。しかし高層空
間から人類の理を見れば反対になるのだ,人類が良いと思うことは
,良くないことかも知れない,全て反対なものになる。我々のこっ
ちは昼であることをあなたは見たが,そっちは夜である;あなたが
正しいと思うことは,正しくないことであるかも知れない。何故な
のか?私は皆さんに一つの簡単な道理を説く。皆が知っているよう
に人は苦痛があると良くないと思う,或いは誰かがあなたをいじめ
たら気持ちが良くないと思って,あなたは良くないと思う。私は皆
に教えておく:人は少し苦しみを嘗め、少し苦しむことは良いこと
である!あなたは考えてご覧私があなたに説いたことは違うだろう
。何故だろうか?高層空間に至るとこの理は全く反対になるからで
ある。彼は:人が人になることは目的ではないと思う。あなたは人
類社会の中で少し苦しんで,あなたの前世に借りた業力を返して,
あなたはもっと高層な空間に帰ることができ,あなたはひいてはあ
なたの生命を生む処,最も美しく良い処に帰る。向上できなくても
,来世は業力が小さいので磨難も少なくなるはずだ。
 しかしあなたの借りた業力をあなたは返さなければ,あなたは高
層世界に行けない。私がこの道理を説いたように,この瓶の中に汚
い物を一杯入れたら,あなたはこの蓋をいくらしっかり絞めても,
水の中に捨てたら,ストンと,すぐ沈んでしまう。若しあなたはこ
の中の汚い物を少し捨てたら,それが少し浮き上がって来る;少し
空けたら少し浮き上がって来る;沢山空けたら,あなたはそれに蓋
をしてからあなたは見て見よう,あなたは押しても抑えられない,
それが自分で浮き上がって来る。我々人が修煉するのと同じように
,あなたの身体は生々世々よ,つまりあなたは各生、各世の時に,
全て人を苛めたやら,人を騙したやら,或いは人を害したやら,殺
生したやら等等の事がある,更に良くない事をしたことがあるかも
知れない。それでは借りたこれらの業力をあなたは返さなければな
らない。この宇宙の中に一つの理がある,失わなければ得ない,得
るには失わなければならないと言う。借りたものを返さなければな
らない,現世に返さなければ来世に返す,必ずこうであるのだ。だ
から人は現在苦痛を受けたら彼は偶然で,他人は彼に不公平であれ
ば,他人は良くないと思う。皆さんに教えよう:何れも偶然なこと
ではなく,何れも以前借りた業力で引き起こしたのだ。若し一人は
業力が無ければ,街を歩いていて誰でもあなたに会うと笑顔をする
,知らない人でも主動的にあなたのためにサビスをする,あなたは
大変自在なのだ!しかしこのような人は彼はきっと人類空間に生活
するはずはない,彼は天上に戻るべきだ。人はこうであるのだ,人
には業力があるので,思想を浄化できないと永遠に修め上がれない
。正に私が今言ったこの道理のようである。
 人は少し苦しみを嘗め、少し苦しむのは悪い事ではない。あなた
は少し苦しむなら,業力を返すことができる,あなたは真に美しく
良い処に行き,永遠に再び苦しみを受けない。あなたは人類社会で
いくら幸せに生きていると思っても,あなたの家に億万があっても
,あなたはいくら偉い大官になっても何十年に過ぎず,速く過ぎて
しまう。皆さん考えて見て転生の時,あなたが来る時はまっ裸で,
行く時はまっ裸だ。あなたは何を持って行けるか?あなたは何も持
っていけない。あなたは誰に捨てるか?あなたはあなたの後代に与
えたと思う。しかしあなたが次回また転生した時,彼はあなたは誰
かを知らない,あなたは彼の所に行って仕事をして、床を掃いても
,彼もあなたに良い顔を立てて見せるとは限らず,あなたに一銭多
く儲けさせるとは限らない。本当にこうであるのだ!人はここに迷
っているのだ。
 我々はここで人生の本質の道理を説く。特に我々修煉の人は,皆
さん考えて見て,我々が苦痛を受けた時,他人があなたを苛めた時
,他人があなたに迷惑をもたらした時,あなたが何かの物質利益を
失った時,私に見させるなら何か悪い事だとは限らない。この宇宙
の中に一つの理があるので,失わなければ得ない,得ようとするに
は失わなければならない。また一つの特点がある,あなたは得て失
わなければ,それはあなたに強いて失わせる,これは宇宙の特性で
ある。厖大な宇宙の一切物質は皆生命であり,一切物質も真、善、
忍から組成したのだ,だから如何なる物体,石や、鋼鉄や、空気や
,人類が造り出した如何なる製品、物質,構成した微視は何れも真
、善、忍という特性から組成した物質である。この厖大な宇宙の中
はつまり真、善、忍で構成したのだ,彼は宇宙の中の一切を均衡し
ている。ある人は人を殴り,人を罵り,人を苛め,他人に苦痛をも
たらした時,自分はとても嬉しいと思い,彼は得る一方に属する。
常人は彼に:あなたは本当に腕がある,えらい!あなたが損をして
いないと言った。しかし私は彼が損を大変大きくしたと思う。何故
だろうか?彼が良くない事をした時,彼は得る一方に属し,彼は他
人を苛めて,彼が得たと言える,それで彼は失わなければならない
。相手が得たのは苦痛であるので,彼が幸福を失うに等しい,それ
で相手が得るべきだ。どのようにして得るのか?あなたは彼を一拳
殴り,彼を一言罵るなら,それであなたはあなたの罵る酷さ、殴る
酷さに従って,あなたの身体の周囲から一つ真っ白い相等数量の物
質を飛ばせる,この種の物質は:徳と言う,相手に落としてやって
,相手の身体に落ちてしまう。相手は彼も人であるから,彼もこの
道理が分からないかも知れないよ,お前は僕を殴った,怒ってたま
らない。彼が怒った時,彼は元へこの徳を推すのに等しい。彼はそ
の後また彼を一拳殴り返し、彼を一言罵り返した時,それで彼はこ
の徳をまた投げ返した。二人とも失うことも無く得ることも無い,
誰も得ていない。宇宙の法理は公平なのだ。
 若し一人の修煉の人としては,彼の心の中は放下できる,あなた
は私を殴り,あなたは私を罵るが,私の心の中はとても平然で,私
は気にしない,私は修煉の人だから。あなたは常人で,私はあなた
と同じような見識を持ってはいけないと言う。それでは皆さん考え
て見よう,この人は道徳基準が既に一般人を超えたように上昇した
ではないか?他人が彼を殴る時,彼に徳を与えるではないか?しか
も徳という物質は却って功に演化することができる。あなたの功は
どこから来たのか,私は皆さんに教える,つまり徳が演化して来た
のだ;それに宇宙の中から採集した幾らかの物質にあなたの徳を加
えて始めて,あなたの功を演化し出すことができる。あなたはこの
徳が無ければ,あなたはこの功を修め出せない。それでは彼があな
たを殴った時,彼は彼の徳をあなたに与えて,あなたは徳を増して
,あなたがまたもっと高く修められるだろう,この道理ではないか
?あなたが得たものはこの常人があなたに苦痛をもたらしたため得
た補償よりずっと大きいだろう?それでは彼があなたを殴り,或い
はあなたを罵り,あなたに何か迷惑をかけて,それゆえにあなたは
苦痛をうけた,あなたは苦痛の中であなた自分の身体に持っている
業力,前世借りたそのまっ黒い物質,業力と言うが,それもまた徳
に転化する,それはまた相応的に一部分の徳を与える。一人の常人
として,皆さん考えて見よう,一挙二得だ。あなたは私に少し苦痛
を造ってくれたが,私は却って二分の補償を得た。
 しかし一人の修煉の人としては彼は四つのものを得られる。これ
一切を受けた時,あなたは彼と同じ見識を持っていず,心の中はと
ても平然で,殴られても殴り返さず,罵られても口答えしない。心
の中はとても平然である時,皆さん考えて見て,あなたの心性は修
めて上がって来たではないか?若し彼はあなたにこの迷惑をかけな
いなら,彼はあなたに苦痛を造らないなら,あなたはどのように修
めるか?あなたはそこに座って楽楽で,お茶を飲んで,テレビを見
るだけで修め上がれるか,どれほど高くなりたければそれほど高く
なるか,これは絶対不可能だ。この複雑な環境の中で,苦労を嘗め
る中で,磨難の中であなたは始めてあなたのその心を向上できる,
あなたは始めて高基準、高境界に到達できる。それであなたの心性
は彼と同じようにしなければ,あなたの心性は修め上がったではな
いか,あなたは一挙三得だ!それではあなたは一人の煉功人として
,あなたは層次を高めて一日も早く圓満になりたいではないか?そ
れではあなたの心性は修め上がって来たら,あなたの功も上がって
来たではないか?間違い無いのだ!この様な一つの道理がある,そ
れは:心性はどれだけ高ければ功はどれだけ高いという。この人は
心性がそれほどしか高くないなら,功だけが長じるものか?それは
絶対不可能だ!この様な事の存在が無い,絶対不可能だ。ある人は
,一部の修煉の人は彼の心性が私にも及ばないが,何故彼は功があ
るか?彼はこの方面であなたに及ばないが,彼はある方面ではあな
たより強いかも知れない。人は修煉の中で一つの心、一つの心を除
去するのだ,ある除去していない心は表されると彼はやはり常人と
同じだが,除去した心は無くなったたら勿論表現しないのだ。一人
の修煉人として,あなたが苦痛を受けた時,あなたは一挙四得だ。
冗談を言うが,あなたはどこでこのような得を捜すか?
 ある人は私を殴った,私を罵った,自分は怒ってたまらない,心
の中は憤慨して不平である;或いは他人が私のうまいことをして,
私の金を儲けて,全く我慢できない!人はこれらのものをとても重
く見ている,ひいては蝿の頭ほどの小さな利益をも失ってはならな
い。皆さん考えて見よう,この人は何と可哀相に生きているだろう
!彼は少しだけでもうまいことをしたら,彼は内心から喜んで,そ
れしきのうまいことの為だけだ,人は現在こうであるのだ。彼は彼
の真に失ったものは何かが分からない,最も恐ろしいものだ!この
徳は何故こんなに貴重なのか?皆さん知っているが,東方人の老人
は皆こう言う:徳があって始めて福運がありえる。この福運は幾つ
かの方面を含めている:大官になるやら、大金持ちになるやら、家
を持ち、土地を持つやら、幸福があるやら等等は,何れもその徳で
交換したのだ。それは人の生命に従って行く;人が死んだらそれは
元神に従って行く;あなたが転生したらそれもあなたの転生に従っ
て行く。徳だけでなく,黒色物質はつまり私が今言った業力で,こ
の業力も人の生命に従って行く。この二種の物質とも人に従って行
く。以前老人は言う:悪い事をしたら報いに遭う。誰があなたに報
いるか?誰があなたにその債務を帳簿につけてやるか?あなたのた
めにこれらの事を管理する人はあるか?しかしこの徳はそれはあな
たの身体に付いている,それがしっかりとあなたに粘り付いている
,来世はこの徳に決まるのだ。業力が多ければ,あなたのこの一生
は苦痛が多く、病が多く、災難が多い;徳が多ければ,あなたのこ
の一生はお金が多く、福運が多く、官が大きくなる。つまりこのも
のがもたらしたのだ。それでは一人の煉功人として,この徳はもっ
と貴重である,それは功に転化できる,取りも直さずこのような一
つの道理だ。
 現代の科学はこの一点が見えないのは,現代の科学はこの層の空
間を突破できないからだ。我々人類はどのような一つの空間形式の
中に生存しているか?私は皆さんに教える,我々人類が生存したこ
の層の空間は二種の物質粒子の中間にある。粒子について,我々の
物理を学んだ人は知っているが,分子や、原子や、何か原子核や、
クォクや、中性微粒子や,それらは皆一層の粒子で,それはもっと
大きな粒子を構成した物質元素である。我々人間はどの一層粒子の
中に生存しているか?我々人間が目で見た一番大きなものは星球で
,一番小さなものは顕微鏡の下で分子を見られる。実は我々人間は
星球と分子との間という一層の空間の中に生存している。我々はと
ても広く、とても広漠で,大きくて比べものはないと思う。私に言
わせると現代の科学は発達しない,宇宙飛行船であなたが幾ら高く
飛んでも,あなたも我々のこの物質空間を飛び出せない;コンピュ
−タ−は幾ら発達しても人の脳と比べものにならない,人の脳は現
在やはり一つの謎である,だから人類の科学はやはりとても皮相な
のだ。
 皆さん試して考えて見よう,我々人類が星球と分子との二種粒子
の中間に生存している,それでは分子は原子から構成したもので,
原子と分子との間の空間はどんな様子なのか?現代の科学者は原子
の一つの点,それの一つの小さな構造しか認識できない。実は原子
の存在するところはそれも一つの面で,この面で構成した一つの物
質空間も相当厖大なのだ,あなたが発見したのは一つの点であるに
過ぎない。それではそれのこの一つの層次面の中で,この空間はど
れほど大きいか?我々の距離を測る基準は,いつも人類自分の現代
科学という角度に立って一切を量る。あなたが実証科学の枠及び概
念から飛び出さなければならない。あなたがその空間に入るには,
あなたはその空間の形式に符合しなければならない,あなたはそれ
で初めて入ることができる。原子から分子までのこの距離は科学に
より分かったのは約二百万個の原子が並んで来て始めて原子から分
子に到達できる。彼が認識できるこの距離だけでも既に相当広い,
あなたは現有人類という一つの実証科学の枠の状態の中に立ってそ
れを認識してはいけない。それでは皆さん試して考えて見よう:原
子から原子核までの中間はそれは一層空間ではないか?それでは原
子核とクォクの間はそれはどれほど大きな空間距離があるのか?そ
れではクォクから中性微粒子までの間は?勿論我々現在人類の科学
は中性微粒子までしか認識できない。見ることは見られないのだ,
機器で測って,それの存在形式を知ることしかできない。実は物質
の本源物質までどれほど掛け離れているか知らないのだ!
 私の言うこれは一つの最も簡単な空間存在形式である。我々人類
の一切物質は,あなたが見えないこの空気中に存在する一切物質と
我々の見える物質を含める,例えば:この鉄や、セメントや、動物
、植物、物質,それに人の身体は,何れも分子から組成したのだ。
人類は分子という面に生存しているのであり,正に一枚の立体画の
ようで,あなたはこの面に生存しており,走り出せないのだ。人類
の科学もこれくらいの空間の内に局限されて彼も突破できないのに
,また科学は如何に発達していると言って,一切の学説を排斥する
。人類の技術は更に高く宇宙を認識するのに達することができず,
彼は若し真にこの層の空間を突破できれば,彼は別の空間の生命の
存在の形式、物質存在の形式、中の時空構成の構造が見えるはずだ
。しかし,我々修煉の人は見られる,佛こそが最高の科学者である
。
 私は天目を開くことを言う時この問題を言ったことがある。人は
目を避けて物を見て,我々のこの天目から見る,つまり両眉毛の間
,或いは道家の言う山根,鼻の付け根というところから一筋の通路
を開けて,直接あなたの松果体に通じる。医学上では松果体と言う
,道家の煉功人はそれを泥丸宮と言う,指したのは即ちそれである
。しかしこの松果体の前半部分には,医学者は既に人の目のあらゆ
る組織構造を具備していると発見した。現代医学者はとても不思議
だと思って,何故この中に一つの目があるか?彼は退化した目だと
思う,彼はやはり進化論によりこれらのことを解釈する。実はそれ
はこのように存在するのであり,全然退化しているのではない。人
は肉眼を避けて物を見る時,勿論この肉眼を良く修煉できた時,肉
眼も突き抜けることができ,このような功能をも具備している,佛
法は無辺なのだ。一般は目を避けて,分子で構成した目を避けて見
るなら,この空間を突き抜けて別の空間の景象を見られる,取りも
直さずこの道理だ,だから修煉の人は常人の見えないものを見られ
る。勿論ある常人は,彼の一生の中でぼんやりとしている内に,偶
然に何らかの不明現象を見たことがある,例えば:一人が目の前を
ちらっと通り過ぎたことを見た,或いは何かを見た、何か音声を聴
いた。それはぼんやりとしている内に真に別の空間の情況を見たり
、聴いたりしたかも知れない。人の天目はきつく閉鎖されていず,
或いは耳はきつく閉鎖されていないので,偶然の間別の空間の音声
が聞こえる,或いは別の空間の何らかの現象が見える。
 私が今人類の生存しているこの空間のことを言った。実は我々人
類が生存するこの星球は最大な粒子、最大な物質ではない。星球以
外にまだ更に大きな物質があるよ!だから釈迦牟尼佛の眼睛は極め
て微視の下に既に相当微視的な物質が見られる;巨視的には既に相
当大きな、巨視的な物質が見られる。しかし釈迦牟尼佛は最後にや
はりこの宇宙は一体どれぐらい大きいかを見極めていない,それで
彼が一句の話を言った,其の大は外無し,其の小は内無しと言う。
この宇宙はなんと厖大だろう!どれほど複雑なのか皆さん考えて見
よう,人類の知っているようなことではない,つまり我々のこの空
間,この種の形式は,それは相当複雑なのだ!それのこの種の空間
形式を除いて,また縦方向に存在する空間形式があり,しかも縦方
向の空間の中にまた沢山沢山の単元世界があり,とても複雑なのだ
。私の言ったこの単元世界は天国などを指すのだ,各空間にまた違
う時空が存在している,あなたは考えてご覧この原子から構成した
空間は,その時間が我々のこっちの分子から構成した空間の時間と
同じでありえるか?その空間概念、その距離は我々のとも違う,一
切も変化が発生した。あの外星人の飛行円盤(UFO)それが何故
こっそりと往来でき,こんなに速く飛ぶか?それが別の空間を通る
のだ,こんなに簡単だ。人類は現在自分の科学角度に立って宇宙中
の不明現象を認識し,或いはこの方法で修煉,或いは宗教を研究す
れば,永遠にもはっきり研究できない。彼は彼の思惟方法を変えな
ければならず,彼は別の一つの角度に立って認識しなければならな
い。人類の歴史上で,科学は現在の欧州人が発見し、発明したこの
所謂実証科学だけではない,この一筋の道だけでなく,まだ別の道
がある。地球上で発見した,歴史上に曾てあった古い文明の発展し
た過程は皆別の生命物質に対し、宇宙に対して認識した道である。
中国の古い科学は別の道を歩んだのだ。勿論中国のこの文化はそれ
が及んだ層次はとても高いため,人の道徳は駄目になったため,そ
れも抑制されるのだ。だからそれは伝わって来なかった,しかし西
方の最低のこの科学形式は却って人に残した,だからそれは相当不
足なのだ。
 先程人は我々のこの物質空間の中に生まれたのではないことと人
になる目的を説いた。人は若し更に滑って下りて行けば壊滅,徹底
の壊滅に臨む,それは:形神全滅と言う,とても恐ろしい!だから
佛は人を度しようとする,つまりあなたがこのような窮地に瀕しな
いようにさせて,あなたを人の苦痛の中から天国に度する,それは
真に、根本的に人の苦痛問題を解決するのだ。現在の人が佛を信じ
る基点と過去の古人が佛を信じる基点とは同じではない,過去の人
が佛を信じるのは佛を拝み、佛を修め、佛を敬うことであり,他に
何の心も無い。現在の人が佛を信じるのは佛を求める為である。し
かし求めるという心は佛にとっては最も汚く,最も汚い一つの心で
ある。だから皆さん考えなさい,佛はあなたを度する為であるが,
あなたは常人の中での安逸、幸福を求める。あなたは常人の中で若
し真にあなたを幸せにさせ,気楽に生きさせるなら,あなたは真に
佛になりたくないのだ,あなたは現在もう佛だ,これはどうして可
能なのか?人は生生世世に借りた業力、やった悪い事をあなたは返
さず,あなたは幸福を求めるばかりで,それはどうして求められる
のか?あなたは一つの方法しか無い:修めに行くことだ,それで始
めて借りた業力を消し除くことができる。あなたは佛になりたくな
いと言うが,あなたは一人の良い人にならなければならなく,善い
事を多くやり,悪い事を少なくやる,あなたは将来始めて幸福にな
れる,あなたの真正の自我生命を更に長く続けさせる。しかし人は
転生する時脳を洗ってから,一つの良くない環境の中に転生して波
に従って流れを追って壊滅の縁に至るかも知れない。
 先程私は釈迦牟尼佛の言ったこの宇宙は其の大は外無し,其の小
は内無しということを言った。ある人はまだこの話をあまり理解で
きないかも知れない。つまり釈迦牟尼佛は一つ何の問題を見つけた
のか?彼は三千大千世界学説を説いた。釈迦牟尼佛は言う:我々人
間と同じように物質の身体がある人は,別の空間の中に生存してい
る人だけでない,彼は我々人類社会というような世界が三千あると
言った。この銀河系の中で,三千のこのような星球がある。しかも
彼はまた一句の話を言った,彼は:一粒の砂の中に三千大千世界が
含んでいると言った。彼は一粒の砂の中に三千の我々人類が生存し
ているというような空間があると言った。しかしそこの人の大小の
比例は,あなたは現在科学の認識概念で認識してはいけない,彼は
別の一つの時空形式の中に生存しているのだ。
 今私が言ったこの話についてある人は不思議だと思って,理解で
きないかも知れない。皆さん考えて見て,地球がとても法則的に運
転している。それでは電子が原子核を巡って運転している時は地球
が太陽を巡って回っていることと何の差異があるか?同じ形式なの
だ。若しあなたは電子を地球ほど大きく拡大して見る時,あなたは
その上に生命がないか?どんな物質は上に存在しているか?と見え
る。釈迦牟尼佛は言う:其の小は内無し。彼はどんな程度まで見た
か?物質の微視的に彼は既にかなり微視的に見た。彼は一粒の砂の
中に三千大千世界が存在している,一粒の小さな砂の中に三千大千
世界があると言った。それでは皆さんは試して考えて見て,釈迦牟
尼佛が言った事は本当のことであれば,その砂の中にも,その世界
の中にも江、河、湖、海があるではないか?それではその江、河、
湖、海の岸にも砂があるではないか?それではその一粒の砂中にま
た三千大千世界があるではないか?それではその一粒の砂の砂の中
にまた三千大千世界があるではないか?下へ追って調べれば釈迦牟
尼佛は限が無いのだと発見した。だから彼はそれで一句の話を言っ
た,其の小は内無しと言った,彼は物質の最も本源は何か見極めな
かった。勿論この物質の最も本源について以前我々は言ったことが
ある,私はここでこれ以上言おうとしない。あまりにも高く、あま
りにも深く言ったら,特に多くの人は中国語があまり聴いて分から
ないので,私はこの方面のものを多く言わない。私はとりあえずこ
れくらいを言ったが,次に皆さんは修煉中、法を学ぶ過程中の問題
を少し出しても良いが,私は解答してあげる。