修煉を言うと,多くの人は幾らかの動作を練り、打坐をし、呪い 文句を少し学ぶのは,つまり修煉で,神に成り、佛に成り、道を得 ることができると思っている。実はこれは修煉ではなく,世間の技 能を練るだけである。
それでは宗教の中で修をとても重視されている,名は修行と言う ,こうして又別の一つの極端に入った。出家の人は努めて経書を念 じて,経書を掌握する多少を圓満の方法だと見なしている。実は釈 迦牟尼佛、イエス,老子を含めて,在世の時,根本的に経書が無く ,実修しかない,師尊が言った話は修煉を指導する為に言ったので ある。後の人は彼らの言った話を思い出して本に書いて,経書と名 付けて,段々と佛学、法学を研究するようになって来た。師尊達が 在世の時のように,真に実修し,彼らの説いた法を実修の指導とす るのではなく,宗教経典の学習、学問を修煉としたのである。
これは歴史的な教訓である。法輪大法を修煉する弟子は,ただ法 を常人或いは出家人の学問として研究して,実修しないことは絶対 いけないことをぜひ覚えなさい。私は何故お前らに《転法輪》を学 ばせ、読ませ、覚えさせるか?目的はお前らが修煉することを指導 するよ!それらのただ動作を練るだけで法を学ばない者については ,全然法輪大法の弟子ではない。法を学び心を修め,圓満の手段ー ー煉功を加えて,確実に本質上から自分を改変する,心性が向上し ており,層次が向上している,これこそ真に修煉するのである。
一九九六年九月六日