忍の中に捨があり,捨てられるのは修煉の昇華である。法には不 同の層次が有る,修煉者の法に対する認識も自分がこの一層まで修 めた認識であり,各修煉者の法に対する理解が違うのは各人の所在 の層次が不同である。
不同層次の修煉者に対しては,法が彼に対して不同層次の要求も 存在している。捨は常人の心に執着しない体現である,若しも真に 泰然に捨てられ、心が動かされない者なら,その実は既にその一層 にあるのだ。しかし修煉はつまり向上するためである,お前は既に この執着を捨てられる以上,それでは何故執着を恐れることそのも のをも捨て去れないか?漏れが無く捨てられるならそれはもっと高 い捨ではないのか?でも修煉者或いは常人は根本的な捨までもでき なければ,この理にも言及すれば,それは執着心を放さないことの 為に口実を探して法を乱すだけだ。
一九九六年四月二十六日