気功界、宗教界では皆失と得を講じている。ある一部の人は 失とは即ち喜捨し,些かの良い事をし,誰かが困難であれば助 けることである;得とは即ち功を得ることであると思っている。 廟の中の和尚もこう言っている,喜捨すべきだ。これでは失を あまりにも狭隘に見るのだ。私達が言った失は広義的なもので あり,一つのとても大きなものである。私達が要求した失うも のは常人のその心であり,その執着して放せない心である,あ なたの重要だと思うものを失うことができ,あなたの捨てられ ないと思うものを失うことができる,これは真の失である。人 を助けて些かのいい事をし,少し慈悲の心を表す,これはただ 失の一部分のみである。
常人としては少し名をあげ,利を得たい,生活は少しばかり 良く,少しばかり気持ちが良く送りたい,金は少しばかり多く持 ちたい,これは常人の目標である。しかし私達煉功人は違う,私 達が得たのは功であり,これらのものではない。私達は個人の 利益を失わせて見,少し淡泊に見るが,あなたに本当に何かの ものを失わせることでもない。私達は常人社会の中で修煉をし, 尚も常人と同じように保持すべきであり,肝心はあなたがその 心を放下しなければならないのであって,あなたに本当に何か の物を失わせることではない。あなたのものであれば失わず, あなたのものではなければ手にも入れられず,手に入れたとし ても人に返すのだ,得る所があれば必ず失う所があるという。 もちろん,いっぺんに全部とても高くできるのも不可能であり, 一夜で覚者になることもできないのである。しかし,少しずつ 少しずつ修め,一歩一歩向上するのはできるのである,あなた はどれぐらい失えればどれぐらい得られる。利益の関係上では あなたはいつも淡泊に見るのであり,むしろ少なく得るほうが 安逸である。物質上ではあなたは損を受けるかもしれないが, 徳ではあなたは多く得られる,功ではあなたは多く得られる, これは道理の所在であり,あなたに有意に名誉利禄で交換させ ることではない,これは悟性によって一層体得する必要がある。
ある大道を修める人が曾て,他人が欲しがる物は私は欲しく なく,他人が持っている物は私は持っていない;しかし私が持っ ている物は他人は持っていない,他人が必要としない物は私は 必要だと言ったことがある。常人としては満足する時は非常に 有り難く,何でも欲しがり,唯地下の石だけは彼は拾わない。 この道を修める人はそれでは私はこの石を拾おうと言っていた。 俗語では物は稀であるほど貴く,少ないほど珍しいという,石 はこちらでは値打ちがないが,あちらに行ったら一番値打ちの あるものである。ここから常人が話し出せない哲理を話し出し た。少なくない修成した大徳高人は,彼らは皆何も持っていな い,彼らに対しては,個人の放棄できないものはない。
煉功という道路は最も正しいのであり,煉功人こそ一番聡明 なのである。常人が争おうとするその物,得ようとするそれく らいの益は一時的なものであり,争って手に入れた,拾った,或 いは少し益を得たとしても又どうなるだろうか?常人には一句 の話があり:生まれる時は持ってこられない,死ぬ時は持って 行かれないという;来る時は裸一貫であり,行く時は裸一貫で ある,骨までも灰になるまで焼いてしまう。あなたは腰に一万 貫の金をまとっても、高官赫々でも,あなたが何も持って行け ない,しかし功は持って行ける,それはあなたの主意識の身体 に生長しているからである。私があなたに教えよう,功は得る のは易しくないのであり,それは甚だ珍貴で甚だ得難く,千金 にも替えられないものである。あなたの功がかなり高くなった 時,仮にいつか或る日にあなたがもう煉功したくないと言った としたら,あなたが悪事をしない限り,その時にあなたの功は あなたの欲しいと思う一切の物質的なものに転化できる,皆得 ることができる。但し,世間であなたが得られる物を除いて, 修煉人の得られるものはあなたにはもうないのである。
ある一部の人はある種の個人の利益のために,本来自分に属 すべきではないものを,不当な手段を通じて手に入れた,彼は 得だと思ったが,事実上彼が得た利益は「徳」で他人と交換し たのであり,ただ彼が知らないだけである。煉功人に対しては 功から減り;煉功しない人に対しては寿命から減り,或いはほ かの方面から減る。要するに,この借りはいずれにせよ清算さ れるのであり,これは天理の所在である。又ある人はいつも人 をいじめたり、悪口で人を傷つけたりする,等々,これらの行 為の発生につれて,彼はそれなりの徳を相手に抛ってやって, 徳で相手に対するいじめと交換したのである。
ある一部の人は,善人になることが損だと思っている。常人 から見ると彼は損を受けたのだが,彼は常人では得られないも のを得た,それは即ち『徳』ーー「白色物質」であり,それは 極めて珍貴なものである。徳がなければ功はないのである,そ れは絶対の真理である。多くの人は何故煉功しているのに功が 長じないのだろうか?つまり徳を上へ行かせるように修めてい ないのである。沢山の人は皆徳を講じており,徳を要求してい るが,徳を真に功に転化する道理を言い出してはいない,個人 の悟っているにたよらせている。大藏経は一万巻以上書かれた, 釈迦牟尼は在世時に40年間余り法を講じた,皆一つの徳を講 じるのである;中国古代修道の本は皆一つの徳を語っているの である;老子が書いたあの5千言の『道徳経』も語っているの が一つの徳である,しかしある人はどうしても悟れない?
私達は失を講じる,得があれば失がある,あなたは本当に修 煉したかったら,多少の磨難に遇うものである。生活中に体現 されては,一つは身体が少し苦しくなり,こっちも気分が悪く あっちも気分が悪いが,病気ではない。又は表現が社会、家庭、 勤め先に皆出現可能であり,突然に利益のために矛盾を発生し, 感情の間に摩擦が出現し,目的はあなたに心性を向上させるこ とである。これらの事は往々にして来るのが非常に突然である, 非常に猛烈に見える。もしあなたが遇った非常に面倒な事が, あなたを大変うろたえさせ,大変に面目を失わせ,面子上をと ても過ごさせないなら,その時あなたはどう対応しようか?あ なたが非常に平然としている,この点まですることができれば, あなたのその心性はこの一難の中で向上し,あなたのその功も 相応にそれだけ高く長ずる。あなたがほんの少しすることがで きれば,あなたはほんの少し得ることができる;あなたはどれ くらい払い出せば,あなたはどれくらい得ることができる。人 は難の中では往々にして悟り出せるとは限らない,しかし私達 は悟らなければならず,常人と混同してはいけない,矛盾が起 こった時高姿勢をとらなければならない。私達は常人の中で修 煉をしており,心性の練磨も常人の中で練磨しなければならな い,何回もころんで,その中から教訓を得る。何の面倒な事に も遇わずに,気楽に長功できることは,それは不可能なことで ある。