「法輪功」の修煉には意念を持たない。意念そのものは何も できない,しかし彼は指令を出すことができる。本当に作用を するのは功能であり,それは霊体の思惟能力を持って,大脳の 「信息」指揮を受ける。しかし多くの人特に気功界では説がか なり多く,意念は沢山の事ができると思われている。ある人は 意念で功能を開く,意念で天目を開く,意念で病気を治療する, 意念で運搬するなどと言っている,これは一種の誤った認識で ある。低層次に於いて常人の中では意念は感覚器官と四肢を指 揮している。高層次に於いて,煉功人の中では意念は昇華し, 功能が物事を行うことを指揮することができ,つまり功能は意 念の支配を受けるのである。これは私達の意念に対する見方で ある。ある時気功師が人のために病気を治し,手を出さずに患 者がよくなったと言ったことを見て,意念でなおしたのだと思っ た,実際は彼は一種の功能を打ち出して,功能が病気を治療し 或いは何かの事をやりに行くのを指揮するのである,功能は別 の空間を歩いているので,常人の目では見えない,分からない 者は意念がやったのだと思ってしまう。ある人は意念で病気を 治療できると思って,人を偏った方へと導いた,この見方は澄 まさなければならない。
人の思惟は一種の信息であり,一種の能量であり,物質存在 の一種の形式である。人が問題を考えて思惟を行う時,大脳の 中で一種の周波数を発生する。ある時には呪いを念ずることが 非常に有効である,何故だろうか?宇宙にもそれの振動の周波 数があるからであり,あなたの念じた呪いが宇宙の周波数と共 鳴を発生した時に効果を生じることができる。もちろん良性の 信息でなければならずそれで始めて作用をすることができる, 宇宙の中では邪のものの存在を許さないからである。意念も一 種の特定の思惟方式であり,高層次の大気功師の「法身」は主 体の思惟から制御と指揮をしているのである。法身も彼自身の 思惟があり,彼独立で問題を処理し事をする能力があり,彼は 完全に一つの独立した自我である。同時に,法身は気功師の主 体思惟が分かって,主体思惟に従って事をやりに行くことがで きる。例えば気功師がある人のために病気を治療したいと思う と,彼はすぐに行く;この意念の出すことがない時には,彼は行 かないのである。彼が非常に非常にいい事を見たら彼は主動的 にやりにいくことができる。ある大師はまだ開悟の程度に達し ておらず,ある一部の事は彼はまだ知らないのだが,彼の法身 はかえってもう知っているのだ。
意念にはさらに別の意味があって霊感と言う。霊感は人の「 主意識」(Zhu Yi Shi)から発したものではない。主意識の知 識面はとても限りがあるのである,社会に無いものを造り上げ ようとするには,主意識によるだけではいけない。霊感は「副 意識」(Fu Yi Shi)から来たものである。ある人は創作をや り、科学研究をやり,頭をしぼってもできない時,ひとまずお いて休んで,外に出て一回りして来る。突然に,無意識の間に 霊感が出て来て,すぐ筆を奮ってぐんぐん書き進め,ものを創 作できた。これは主意識がとても強い時,大脳を制御していて, 思い出せないからである。主意識が緩むと,副意識が作用し, それが大脳を主宰する。副意識は別の一つの空間のものであり, この空間の束縛を受けず,新しいものを創造できる。但し副意 識も常人社会の状態を超越、干渉し,社会発展の進行過程に影 響することができない。
霊感は二つの方面から来る,一つは副意識が提供したのであ り,副意識は世間にまどわされず,彼は霊感を生じることがで きる。もう一つは高層次の高霊の指揮、指示から来るのである。 高霊の指示がある時,考えの筋道が広がり,新生面を開く事を することができる。全社会と宇宙の発展には皆その特定の規律 があり,一切は皆偶然なのではない。